東京外国語大学大学院総合国際学研究院講義レポート3/3

昨年10月に引き続き、東京外国語大学でカポエイラについての講義を担当させて頂きました。

今回は大学院総合国際学研究院の研究員のみなさんを対象に、研究会のテーマである
「ブラジルにおける喜劇性―ユーモア・笑い・遊戯性―」に基づき、カポエイラに何故遊びの
要素があるのかということを探りながら、カポエイラについて少し踏み込んだ内容をお話ししました。

第1パートではカポエイラとは何かという大層なテーマ、「カポエイラをする」という動詞や
バトゥーキ、カポエイラの歌から遊戯性について考え、
第2パートではカポエイラの歴史にみる二極性と変容、カポエイラ・ヘジォナウの創始者
メストレ・ビンバについて触れました。

※Museu afro brasilアフロ・ブラジル博物館
“Revista 2 anos Museu Afro Brasil”資料は何度読んでも発見があります。

最終パートでは、その二極を行き来する術とは何か、 カポエィラの動きを習得すること、
ジンガとは何か、カポエイラのホーダとは何か、良いカポエイリスタとは、
Pastinha の言っていたMandingaと、カポエイラという言葉の語源、を考えながら、
カポエイラに見る遊戯性についてまとめたいと思います。
—-
ここまでにたくさんのことを書きました。
私は20歳の時に女性がカポエイラをする強く華やかな姿に憧れてカポエイラを始めました。
外国人としてブラジルで学び、日本人女性として日本で学び、カポエイラを求めて試行錯誤を
繰り返してこの道を歩き、今なおカポエィラに魅せられ、より触れていたいと願っています。
カポエイラ歴は13年になりましたが、ずっとジンガしながら眠っていたような気がするほど、
日々が発見の連続です。

カポエイラを言葉で定義することは、大変難しく、また危険な作業だと思います。
語られない中に語られているカポエイラの本質、というものは必ず存在します。
私が書いていること、はあくまでも私が感じ、見聞きし、調べたものに基づいている
カポエイラのほんのひとつの側面であり過程の一部にすぎません。
今回は、ブラジル文化を考察されている方々に、カポエイラの側面から、ブラジルを探る
手がかりになればと思ってお話ししたことが全てです。
これは私の体験談であり、私の考え方であり、カポエイラそのものを定義づけるものでは
ないことをご承知いただければと思います。
言葉というものは力を持っていて、定義づけしたり、言葉にするとそれが神化します。
人はそれを追い求めてしまいますが、カポエイラはそもそも、身体を通じて世界を観る
ものであり、定義づけできる性質のものではないでしょう。

私が心から願うことは、後ろにしまいひっ込んでホコリまみれにすることでもなく、
同時に「これぞカポエイラだ」と前にがつがつ出ることでもなく、ただただ、
この素晴らしい芸術について、同じようにカポエイラに興味を持ち愛する人たちと、
考え、育て、共に過ごし、その恩恵を分かち合うことです。
私一人ができることは限られていて、みなさんの力が必要です。だからこそ私達は話し、
聴き、一緒に踊るのだと思います。
先輩方、仲間、そしてカポエイラを始めたばかりでまさに夢中になっている人、
支えてくれる人たち、全ての方々の率直なご意見やご感想を頂ければ嬉しく思います。
私が知らないことは、教えて頂ければ本当にありがたく思います。
カポエイラは、さながら生き物のように、エシューのように、私達の扱い次第で
変化する性質をもっていると思います。カポエイラがどのような生き物になって行くのかは、
それを扱うすべての人の扱い方次第です。
この講義のレポートが、私達みんなのカポエイラを豊かにする一歩へのきっかけに
なればこんなに嬉しいことはありません。
最後に、このような機会を与えて下さった武田千香先生、そして第一回の時に
適任者を紹介しようとした私にチャレンジを勧めて下さった花田勝暁さんに、
そして日々カポエイラを実践する全ての人に、心から感謝申し上げます。

≪ジンガ Ginga ≫——-

写真:半沢健
カポエイラの動きの要、カポエイラをカポエイラたらしめているといっても
過言ではない動きがジンガです。
ジンガgingar は辞書を引くとこのように書いてあります。

①体を左右に揺すって歩く 腰を揺する
② からかう、冷やかす
③頼みなどをすげなく断る、鼻であしらう
※白水社「現代ポルトガル語辞典」より
ジンガがカポエイラにおいて最も重要な動きであることは重々理解していても、
何故ジンガがこのようなフォームをしているのか私にはわかりません。
「ginga ジンガ~The soul of brasilian football」という映画があるほど、
どうやらジンガという動き、ステップには、ブラジル人をブラジル人らしくしている
ブラジル魂のようなものが凝縮されているようです。

ジンガには航海や、海の揺れが関係しているという説があります。
アフロ・ブラジルの辞書を編纂しているNei Lopesは“Gingarジンガ”はアフリカの
キンブンド族の言葉で、jangala “揺り動かす”に由来すると述べています※1。


※1 Nei Lopes Dicionário Banto do Brasil, 
図は Dicionário escolar Afro-Brasileiro
一方で、ヨーロッパ人が奴隷を捕獲にアフリカを侵略した際に、見事に抵抗し撃退した
Nzingaの女王Jingaの名前に由来しているという説※2もあります。
※2José de Jesus Barreto Otto Freitas “Pastinha”
その名前に由来するGrupo Nzinga de Capoeira AngolaのMestra Janjaは
[Texts of Brazil]の「カポエイラと女性たち」の中でジンガについて見事に述べています。

「ジンガ」は、カポエイラの「特徴」などという言葉では表せないほど「特徴的」な
動きですが、「ジンガ」は闘いと舞踏がミックスされていて、否定的なものを
人間の喜びに変えるという、逆境を生き抜く素質のあらわれだと思います。

ブラジル連邦共和国外務省発行 [Texts of Brazil] p,99 

ここでメストラ・ジャンジャは「Transformar(変化させる)」という動詞を使っていますが、
私はこの「変化させる」という言葉はカポエイラの中で非常に重要な言葉だと思います。
Barraventoバハヴェントという単語は、アフロブラジルのリズムの一種で、マクレレーなど
でも使われますが、カポエイラの中でも使われることがあります。
Barraventoは、物事が大きく変化する時を指す表現で、“Transfornação”にあたります。
カポエイラには、変容を起こす揺り動かしの作用があるようだということが、おぼろげに見えてきます。
私たちはカポエイラの動きを通じて様々なものになり、ジョーゴを通じて絶えず変化を
求められています。歌を通じてある時代の人々の声となり、そしていつのまにか、
他者になりつつ自分を作っていたものが、他者そのものになっていたりします。
この変化の境界を行ったり来たりすること、両極のリミットを体験する変化の渦、
他者と自己を行き来すること、そんなしかけがカポエイラのホーダの中にも、
ぽとりと落とされているようです。

≪良いカポエイリスタの条件–ジンガとリズム—≫——

良いカポエイリスタの条件として、私は3つのRという言葉を習いました。
これは最初にMestre Pastinhaの紹介の部分で取り上げた
Mestre Decânioの言葉で、下記の3つを指します。

–Respeito( ヘスペイト) …敬意
–Ritual (ヒトゥアウ) …儀式性
–Ritmo (ヒッチモ) …リズム

どのRも等しく重要なわけですが、「Ritmo」自分のリズムを持つことの重要性は
たびたび先生たちから習いました。ジンガの中に自分のリズムを持つことです。
「ジョーゴの中で自分のリズムを持つものがジョーゴを制するから、
ジンガの中に自分のリズムを探すんだ。自分のジンガを常に探すんだ。」
ここでいう「リズム」は「私、リズム感がなくて…」という音楽のリズムではなく、
話をする時のリズムや、間の取り方、自分が快適と感じるテンポに近いでしょう。

また、Mestra Janjaは、良いカポエィリスタとはどんな特質を備えているべきか?
というインタビューの質問にこのように回答しています。

—「ジンガのうまさです。これは広い意味での人の輪(ホダ)の中で、順応力が
あるということも含めてです。常に人間的に成長できるように、オープンであること。
カポエイリスタとして、教育に責任を持ち、欠けることのない自己形成をめざすこと。
忍耐と敬意を培うために、たゆまぬ訓練。それから、自己と異なるものを尊重する精神です」
ブラジル連邦共和国外務省発行 [Texts of Brazil] p,100 
私の先生Prof.Furacão(フラカォン)は、ジンガはカポエイリスタの最大の武器であり、
魂であると教えました。
「メストレと呼ばれる人は、お前のジンガをみただけで、お前がどんなカポエイラを
するかすぐに理解するだろう。そのくらい、ジンガは「自分自身」を表現する。」

というわけで毎日、日々日々ジンガをするのです。Gingue Sempre….
先生の後ろについて、日々、日々そのリズムを感じながらジンガしていくと、
いつの間にか自分のジンガにその人のリズムが入り込んできます。それは
「さやかのジンガはフラカォンに似ているな」などという、「似ている」という現象ではもはやなく、
その人が自分の中に息づき始めるようなことなのです。
あるカポエイリスタのジンガの中に、他の何人かのカポエイリスタを観ることができるのです。
そして統合され、「自分」がジンガに立ち現れてきます。

何故ジンガが「揺れ」と訳されるのか。それは、その動きがまさに揺れているから
なのですが、この「揺れを創りだす」ということ、リズムを崩すと同時にリズムを
創りだすということが、ジンガの動きの大切な機能であると思います。

では、なぜ私達はジンガしながら揺れているのでしょう?
何故良いカポエイリスタにはジンガのうまさが必要なのでしょうか?

私は、「千鳥足の弁証法」を読んで、マシャード・ジ・アシスが自分の文体を
指して表現した文章、「ちどり足」がまさにジンガであると思いながら読みました。
そして、この二極性のある世界を生き抜くのにジンガが必要であり、同時に
そこにはMandingaマンジンガが必要なのだという答えが出てきました。


※マシャード・ジ・アシス。奴隷の子孫でもありました。
アフロブラジル文化を理解する上で重要な人物の一人として、アフロ・ブラジル博物館でも紹介されています。

—「わたしの本と私の文体は、まるで千鳥足。
右へ行ったり、左へ行ったり、歩いたかと思えば立ちどまり、ぶつぶつつぶやき、
唸り、大笑いをし、天を脅して滑り落ちる…」

マシャードの文体についての武田先生の解説です。

—-これらに共通するのは、支点も定めずにふらふらと、時にはまわりくどく、
またあるときは奇想天外な展開を見せる変わり身の速い筆調である。
その文章は一般的に「模範的」とされるわかりやすく理路整然としたものと
逆を行くのかもしれない。
根底には、≪X≫⇔≪非X≫の動きがあり、それが、通常は自明とされている
対概念が人の心の中やブラジルの社会では対立することなく、それぞれが
都合や必要性に応じて臨機応変に入れ替わることをみた。
もしかしたら、この≪X≫と≪非X≫の千鳥足の動きこそが、ブラジルの歩みなのではないか。
実はこれを探ることは、ブラジルの人・社会・文化の核心に迫ることでもあるのだ。

二極のある日常を生き抜く術として、ジンガというステップがブラジル人に必要
なのだということがわかってきます。ジンガはもはや、単なるステップではなく、
生きる術としての足取りなのです。

マンジンガ Mandinga≫—–

マンジンガの話をする時、必ず話に出るのは伝説のカポエイリスタ・ビゾウロです。
Manoel Henrique Pereira (1895-1924)
Besouro Mangangáビゾウロ・マンガンガー、Besouro Preto ビゾウロ・プレット、
Besouro Cordão de Ouro ビゾウロ・コルダォン・ジ・オウロとも呼ばれ、
奴隷解放後、カポエイラが非合法になり、警察から厳しくマークされた頃、
断固警察と闘った、サント・アマーロに実在した伝説のカポエイリスタです。

ビゾウロは「甲虫」という意味なのですが、何故甲虫かというと、警察が取り囲んだときに
飛んで消えたとか、コルポ・フェシャード(Corpo Fechado…まじないがかかった護られた身体)
で、銃弾も通さなかったというような言い伝えがあるからなのです。

このコルポ・フェシャードにするためのおまじないのようなもの、を マンジンガ(mandinga )、
ひとまずは「魔法」「まじない」「妖術」と訳しておきましょう。

カポエイラの歌にもビゾウロを歌ったものは多く残されています。

 Zum zum zum Besouro Mangangá
 Batendo nos saldados da policia militar
 Zum zum zum Besouro Mangangá
 Quem não pode com mandinga,não carrega patuá

 ズン ズン ズン ビゾウロがまた警察をやっつけた
 マンジンガ(魔術)ができないやつは、パトゥアー(お守り)を持っていないから。

現代的な生活に慣れている私達にはなかなか触れがたくわかりがたい領域ですが、
今なお、このようなまじないごとの言い伝えは普通にブラジルでは信じられています。
「千鳥足の弁証法」に「科学から魔術へと移る境界」という章がありますが、
この「魔術へ移る境界」を開ける鍵がマンジンガではないでしょうか。

「千鳥足の弁証法」によると、ブラジル人の生活には3つの世界観があると言われ、それは
「casa カーザ(家)」「rua フア (道・世間)」「outro mundoオウトロ・ムンド(別世界)」です。
ブラジルにはインジオの信仰もあれば、カトリックも、そしてアフロブラジルの信仰もあります。
「sincretismo シンクレチズモ(混合主義)」という言葉があるように、宗教も同居させなければ
ならなかったブラジル人たちは、ここでも二者択一せず、双方を併せ持つという術を使いました。
ブラジル、特にバイーアの人々は自然の中に神を見る風習があり、別世界outro mundoを
極めて自然なこととして、信じ尊重しています。

Pedro Rodolpho Jungers Abibは、[text of Brazil]の[カポエイラの神秘と魔術]で
マンジンガについて見事にまとめていますが、その一節です。

—昔のカポエイリスタたちは、カポエイラの根本には魔術があると言います。
カポエイラでの「マンジンガ」(mandinga魔術)という言葉は、攻撃すると見せかけて
相手をかく乱するフェイントのような、抜け目ない策略を意味すると同時に、
カポエイリスタと、アフリカ系ブラジル宗教との間にあるきずなを表すという、
神聖な意味もあるのです。 [カポエイラの神秘と魔術] ブラジル連邦共和国外務省発行[Text of Brazil]p,75

偉大なメストレ達が、「マンジンガとは何か」をコメントしているドキュメンタリーがあります。
この中でビゾウロについても語られていますので、観てみましょう。
http://www.youtube.com/embed/536zfbwYJEo

—Mandinga é coisa que,
Um cada mil capoeiristas, nasce com esse…
Tem a sorte de nascer com esse…. que é a malícia
マンジンガは…
1000人のうち1人がその「マリーシア」っていう
幸運と共に生まれてくるもの。

—Mandinga muita gente pensa que é a oração
多くの人は祈りだと考えている

—Mandinga é conhecimento do invisível,  
extrapola ao conhecimento teórico da capoeira
マンジンガとは、可視できない知識、理論を超越しているもの

—A alma do jogo.
ジョーゴの魂だ

—Ter humildade, isso é mandinga
人間性を持つこと、それがマンジンガ

—Mandingueira é aquela que está na hora com seu patuá,
Nem sempre no seu peito,  
No seu íntimo, sabe que o seu santo protetó

マンジンガとは、パトゥアー(お守り)をつけている時
いつもそれが胸になかったとしても、
奥深い自分の中で、自分の守護神が守ってくれていると知ること

—É a negociata da capoeira 
カポエイラの裏でのやりとり
É a mentira permanente
永遠のウソ

—È a uma ginga particular
それぞれのジンガ

—Intangibilidade do capoeirista.
変えがたいもの
—E parece mágico
魔法のようなもの

—A cara consegui fazer as coisas improvizar
Fazer a coisa que a fora do normal
即興で物事をやるやつ…普通じゃないことをすること

—É a forma de jogar, uma forma lúdica de viver.
ジョーゴのやり方、遊戯的な生き方

—Se eu não gostar de você, tenho mandinga de dizer, “meu amigo”!!
もし俺がお前を好きじゃなかったとしても、俺には「友よ!!」っていうマンジンガがあるぜ

—Besouro preto, é claro que ele tinha as viagens dele 
  a relação a se sumir….
ビゾウロ・プレット、もちろん彼はそういう方向の関係があっただろうね、
消えてしまう…

—Mandinga é você pega o ônibus da Liberdade 
no horário de doze hora da noite,
depois você sair do Olodum
マンジンガは、深夜0時にリベルダージのバスに乗って、オロドゥンのショーに行くこと

—Depois de uma aglomeração, de uma briga, 
e polícia montada vim e de repente
e o cara entrou na rua por aqui,e não tem saida, 
e de repente o cara não tá alí mesmo, o cara escapliu, foi embora
人だかりとケンカの後に、山盛りの警官が来て、
そいつは路地に入り込んだんだけど出口がなかったんだ。
そして突然…そいつはもういなくて、消えてるんだ。

—Mandinga é sabê viver, saber fazer do que tem pouco muito. 
Saber entrar e saber sair.
マンジンガとは、生きるということを知っていること。
少しのことから多くを創りだすということ。
入ること、出ることを知っていること。

—Capoeira madinga rapaz,
カポエイラはマンジンガだろ、コノヤロ

—É manha, malícia, 
マーニャ、マリーシア

※聞き取れませんでした。

—Faz que vai mas não vai, quando ele está esperando mas não vai.
行くと思ったら行かない、相手が待っている時も、行かない

—Mandinga é a própria vida
マンジンガとは、人生そのもの。

—Tudo que a boca come
口が食べる全てのもの

どうでしょう?とんでもないことになってきました。もう何でも言っている感じです。
私は、Mestre Bambaの表現「リベルダージのバスに乗って、オロドゥンのショーへ」が、
この物言いそのものがさながらマンジンガのようでとても好きです。

私はジンガを学んだことはあっても、マンジンガを学んだことはありません。
誰からも、教わったことがありません。

まだ私の知らない世界なのだと思いながら、空中に8の字を描いたり、
床に何か置き書きをしたり、背中で何かを言っているような、そんな人たちの
姿を眺めては、どうやらアレはマンジンガというやつなのでは…とまだ
「あちら側」のことのように感じます。

「あちら側」の人のメッセージ、Pedro Rodolpho Jungers Abibの文章から、
重要な要素が読み取れます。それは、このマンジンガが、日常生活へと
波及浸透していくという特性があるということです。

—マンジンガを知るには、アンゴレイロの、ある種の人々が行う、ある種の行為を、
より深く理解する必要があります。その行為とは、最初はカポエイラのホーダの中で
習得されるものですが、メストレ・モラエスが言うように、やがて日常生活に入り込んで行き、
世の中とその接し方にも表れてきます。
特に、サルヴァドールとその付近一帯、ヘコンカヴォに至るまでの地域に住むアンゴレイロ
たちには、世間からみると、かなり風変りなある種の行為、信仰、迷信、習慣などが
見られます。これはまさしく、カポエイラ・アンゴラの生活をとおして習得したもので、
現代社会の、いわゆる「ふつうの理屈」とは違う理論に基づく行動なのです。
そういう人々は大抵、特別の注意力や霊感、第6感などが発達していて、これに従って
行動すると、ふつうの都市社会の行動基準から、かなり外れるのです。
この「ふつうと違う論理」は、アフリカ系ブラジル文化に由来する密教の特質と関連があり、
大昔からカポエイラの様々なフォームによって表現されています。[カポエイラの神秘と魔術] ブラジル連邦共和国外務省発行[Text of Brazil]p,75

カポエイラのホーダ≫———————

カポエイラの「ホーダRoda」という言葉をどう訳すか、多くのカポエイリスタは
困ったことでしょう。結局「ホーダ」とそのままに記すことが多いにしても、それを
説明する時、「集会」と訳すと、日本では「集会」は政治活動と結びついたり、
暴走族(今なお存在するのでしょうか…)の印象など、いまひとつしっくりきません。

では、ホーダとは一体なんでしょう?何のためにホーダがあるのでしょうか。
道場という空間の中でカポエイラが行われるようになったのは、1930年代以降でしょうから、
それまではホーダは主に野外で行われており、道場に入って体系化が進む中で、
ホーダにも段々にしきたりや決まったフォーメーションができてきたのでしょう。

私は自分のグループGrupo de Capoeira Regional Tempoにおいては、ホーダは
「時の共有」であると解釈しました。私のグループは、グループ自体が地域・コミュニティに
強く根ざした存在なので、そもそも地域の中での集まりの場、という性質は道場そのもの
が持っています。人がそこを訪れ、何気ない会話を交わし、お互いを知り、共に生きる
ような場として機能しています。
ホーダでは、カポエイラを通して、そこで起こることを共有し、コミュニケーションを深め、
共に楽しみ、経験することが重要なのだと理解しました。

—-
Aqueles que me chamam de negro 俺のことを「ネグロ(黒人)」って呼ぶあいつら
Pensando que vão humilhar 俺を侮辱しようとしている
Mas o que eles não sabem でもあいつらは知らない
É que só me faz relembar   それが俺に思い出させること
Que eu venho daquela raça 俺はその民族から来た
Que lutou pra se libertar 自由のために闘い
Que criou maculelê マクレレーを創り
Acredita no candomblé カンドンブレーを信じる
Que tem (traz) o sorriso no rosto 顔に笑顔をたたえて
e a ginga no corpo e o samba no pé  身体にジンガを、そして足にサンバ
Que fez surgir uma dança それはダンスの中から生まれ
Uma luta que pode matar 殺すこともできる闘い
Capoeira poderosa luta de libertação 力に溢れたカポエイラ、自由への闘い
E o negro fez uma roda em buscar salvação ネグロたちは輪を作って、救いを求めた
Capoeira é bom aíaíaí não sei porque カポエイラは素晴らしい、なぜかなんてわからない
Êêê o que bonito é pra se ver 観ていると、なんて素晴らしいんだろう

このMestre Ezequielメストレ・エゼキエウの美しい歌にあるように、
黒人たちは集い、「輪」を作りました。その中に救いを探しました。
このように、ホーダは「集うこと」であり、あるひとつの、「場づくり」でもあります。
サンバ・ジ・ホーダもそうであるように、何故「輪(ホーダ)」なのかは明言できないまま
ですが、輪はエネルギーが循環する重要な形でもあることも、見逃せない点です。
アフリカの様々な地からかきあつめられた奴隷たちは、方々に売られていきました。
言語も習慣も違ったかもしれない人たちは「集い」、「輪」を作り、バトゥーキに遊びました。

現在私達が集う「ホーダ」にはさながら儀式のように、いつくかの道具があります。
儀式で奏でるための楽器、主となるビリンバウ、打楽器パンデイロ、
アタバキ、人々の手拍子と、歌。そして踊り会話する身体です。
無理に答えを求める必要もないのですが、この道具は何をするためのものなのでしょう。

≪Axé アシェー≫——

ホーダがエネルギーに満ちて、盛り上がり、高揚してきて、どんどんスピードアップして、
なぜだか男連中はシャツを脱ぎ始めます。アタバキが大きな音を鳴らして、高揚感を煽り、
魂が踊り出すかのように飛び跳ね、二人のカポエイリスタは回し蹴りで旋回し始めます。
そしてホーダが終わる時、何というでしょうか。

「Axé アシェー!!」    です。

汗をびっしょりかいたその身体に、笑顔をたたえて、握手し、抱き合うでしょう。

私はこの言葉を初めてきいたのは、マンツーマンで本当に一生懸命練習した後、
厳しくも愛ある寡黙なワシントン先生が、その前腕に汗をにじませて私の手をとって
普段は不動の表情を笑顔に変えて握手した時でした。

アシェーは、一般的に、アフリカのヨルバの言葉で“エネルギーを指すそうです。
しかし、どのような時に使われていた言葉なのかはわかりません。
その時私に指導してくれた人は確かに、エネルギーを私に渡してくれました。

その謎の元気玉のようなもの、が生成され、伝わったとき、私達はこのホーダが
うまくいったと感じます。しかし、どうでしょう、私たちはこの時踊っているのでしょうか、
それとも踊らされているのでしょうか。
「今日のホーダ、いいアシェーがあったね」などと言いますが、もはやこの言葉は
「今日のライブ、いいグルーヴがあったよね」のように聞こえてこないでしょうか。

「踊らされている」にはふたつの意味があり、ひとつは動きそのものに、
ドーパミンが分泌されるほど興奮を誘発され、踊らされます。
旋回という動きは、他の多くの宗教儀式や民族舞踏にも見られるように、
トランスに結びつく、つまり神に近づくための動きと考えられていますから、
人は旋回したり、旋回を観ることで別世界に行くような錯覚にとらわれます。

しかし、このスピーディで過激な動きに振り回されているという意味でも「踊らされて」いるし、
同時に、旋回という動きそのものが、確かにエネルギーを生成することで何者かに
「踊らされて」いる状態に導くこともまた真実です。

カポエイラが単なるアクロバットやショーとしての役割しか持たなくなったとき、
私達は本当にただ「踊らされる」だけになってしまうでしょう。

私はカポエィラの歌を習ったとき、ある大事なことを教わりました。
「ホーダでは、歌は“歌う“ものじゃなくて、歌わされるものだから、
自分で歌おうとしないで、歌うタイミングが来るまで、“聴くこと”なんだよ」
これは今となってはよくわかる教えです。
何故なら、自分の力ではないところで、動かされることを楽しむこと、
身をそこに投げ出すことが、集い、ホーダを行う醍醐味のひとつだからです。

しかし、「回って」いるのは、カポエイリスタの動きだけではありません。
音楽はホーダの中をループし、回り、カポエイリスタ同士は移動しながら
円を描き回り、自転しながら公転し、空間もまた旋回しています。

では、私達を踊らせるもの、の正体はいったいなんなのでしょうか。

«Capoeira Sagrada カポエイラ・サグラーダ 神聖なカポエイラ»

最後にどうしても書かねばならないこと、それは「Sagrada/o」(サグラード…神聖な)
という言葉です。有象無象がまみれているカポエイラのホーダですが、それが
Capoeira Sagrada 神聖なカポエイラ になる瞬間があると、誤解を恐れずに書きます。

それは純粋に、この素晴らしい芸 / 術 をこの世に残してくれたことへの讃歌であり、
多くの血と涙を流し、傷を負った人々への癒しとして昇華する力であり、
それゆえにカポエイリスタは頭を養い、身体という寺院に魂が集うことができるよう、
研鑽するのです。

私の先生の奥さんはこの言葉が好きです。
「カポエィラは誰のものでもなく神様がくれた贈りものなの。
神が肉体的にも精神的にも囚われていた奴隷達にカポエィラという自由を、
「戦って良いのだ」という自由を与えたんだから、誰もカポエィラによって
束縛されることはあってはならない」

神聖なる、捧げものとしてのカポエイラ、神がくれたものを、その手に戻す時、
人間らしく、かつ神性をもっていかれるだろうか、その術をうまく現代の社会に
活かして行かれるだろうか、それが私達現代を生きるカポエイリスタに
求められているバランスではないでしょうか。

ここにも、二極の行き来があります。いうなれば「あの世」と「この世」。
しかし、なんたることか、これでは完全にオカルトの話になってしまいますね。
私はずっと、この話がタブーのように感じでいました。

“ホーダで何が起こるのか“という問いには、ひとつはこういった境界領域(リミナリティ)
の経験と返答できるでしょう。カポエィリスタはホーダの中で遊び、その場では、
二分法的な概念でできた世界観の崩壊が起こります。
いつもは正しいことが正しくなくなったり、悪徳が美徳とされたり、女性が男性に勝ったり、
大きな者に小さい者が勝利するということが起こります。
転ばせたと思うともう反撃されていたり、転んだかと思えばもう立ち上がっていたり、
非常にたくさんの転換が起こり、それを楽しむことができる世界がそこには起こります。
そして、地の地獄に触れながら天を仰ぎ、この世の重力の中でカポエイラをしながら
あの世の声を聞いているのです。

—-

たとえば最もシンプルでいて、最も謎なこの歌。
カポエイリスタなら歌えない人はいないほど誰もが知っている有名な歌です。
私には、この歌がカポエイラを象徴するもののように思えてなりません。

Ô sim sim sim… Ô não não não  はい、はい、はい、いいえ、いいえ、いいえ
Mas hoje tem amanhã não, 今日はあって 明日はない
mas hoje tem amanhã não….

ここには「はい」と「いいえ」、「今日」と「明日」という二つの面が出てきます。
私はこの歌の意味が長らく分からず、今なおわからないのですが、ひとつだけ
理解できたことがありました。それは、表で「はい」と言わねばならないことは
世の中に残念なことにたくさんあるということです。
心の中では「No」と思っていることを日常では「Yes」と言わねばならない時が
多くあるでしょう。奴隷たちの多くは「Sim sinhô はい、ご主人様」と、心中では
殺してやりたいほど憎いと思っていても、「はい」と言わねばならないことが
多くあったでしょう。

しかし、そんなことも、今日はそうでも明日はもうそうではないかもしれません。
逆を言えば、今日ある命も、明日には自分が罪を着せられて、死んでいるかもしれない。
昨日「いいえ」と言ったことを今日は「はい」といわねば明日がないかもしれません。
ですから、「はい」と言うのです。そして、心で「いいえ」と。
明日はもう違う日ですから、そうやって生き延びるのです。
そうやって生き延びるバランスと選択の中に、
ジンガ・カポエイラという芸 / 術が生まれたのではないでしょうか。

—–

さて、多くのことを述べてきましたが、これらを統合して私がカポエイラの中に
遊戯性を見ることができる理由として行きついた答えは下記の3点です。

1, “セラピーの要素” 日々が過酷だったのでせめて余暇は非日常を遊びたい 
2, “レジスタンス”説 闘いの練習を遊びにカモフラージュする必要があった
3, “暇” 時間を持て余していたので遊んでいた

3が急に出てきましたが、「Capoeira」という言葉の語源も、王道を行く「消えた森」説の
他に「鳥かご」という意味を指すと言っている説※1があります。
※1 Muniz Sodré “Mestre Bimba Corpo de mandinga”
市場に鳥を売りにきた男たちが、売れずに暇を持て余してカポエイラをしていたと言われて
おり、この時彼らがもっていた鳥かごを指して「カポエイラ」と言った説があります。
この鳥説に限らず、「シネマ・ノーヴォ」のグラウベル・ホーシャの映画「Barravento バハヴェント」
などにもみられるように、1900年代半ばのブラジル北東部は、有り余るほどの時間を有して
おり、本当に仕事もなければお金もなく、やることがまるでない、という現実がありました。
漁の網が切れたら、それを直すだけで一日が終わります。
何故でしょう、特にバイーアという場所は、時間が余りに余っているのに物事がまるで
達成できないような、そんな魔法がかかったような場所です。そこで本当に時間を
もてあまし、ぶらぶらと、カポエイラをしていたというのはあながち嘘ではないでしょう。
現実に、今なお、時間を持て余させると道を踏み外すくらいなら、という理由で子供に
カポエイラをさせよう、道場に通っている子供も多くいます。

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ややお粗末な終末ではあり、また後半は非常に抽象的な表現を抜け出ていません。
ですが、そもそも、答えを急ぐようなものでもないもの(カポエイラ)に向かいあっている、
ということも忘れないようにしないといけません。

ócio(オーシオ)という言葉があります。
かつて思想家たちが、思想にふけって座っている(動いていない)状態を指して
生まれた言葉で、そこから働いていない、不毛な、怠惰な、暇なというような
現代の言葉になっています。

このócio(オーシオ)を否定(Negarネガール)することでNegócio(ネゴーシオ)商売
になったといいます。そもそもオーシオには思考はあっても生産性がないのです。
カポエイラは生産性がありません。ですからカポエイラはオーシオに属します。
その時々で消えて行きます。
生産性を選択し答えを急ぐと、その遊びを遊びたらしめているものが死んでしまいます。

カポエイラに何故遊戯性があるのかを考えながら、実にいろんなことを考えました。
あるひとつの側面からカポエイラを観ていくことは非常に有意義です。
そこには私達が陥っている思考や、罠を発見することができ、同時に素晴らしさを
再確認することができるからです。カポエイラには、実はそのものにもだましの要素が
含まれていますから、カポエイリスタもその罠に自らかかってしまうことも多いにあるのです。

講義の中で非常にたくさんの質問を頂きました。
ここからまた発見できることがあるように思います。

この講義は最後、夏に行われるシンポジウムでの講演でひと区切りとなります。
詳細が決まり次第またブログにてお知らせ致します。

2時間半に渡った講義をこの歌で終わりたいと思います。
実に「歌にヒントを探しなさい」とメストレは良く言ったものです。

Você disse que sabe tudo  お前、なんでも知っていると言っているけど
mas você não sabe nada 実のところ、何も知らないんだ
Quem sabe é  「知っている」のは
Bimba e Pastinha que morreu メストレ・ビンバとメストレ・パスチーニャだけだ
Seu nome ficou na parada その名前は亡くなってもなおずっと残って行くものなんだ
Caiangô iô iô iô iô  カイアンゴー
Quem pintou a zebra 誰がシマウマにシマを描いたか?
Quem envernizou a barata ゴキブリに艶だししたのは誰?
Quem deu a luz ao vagalume 蛍に光を与えたのは?
Quem me ensinou a parada  そして俺に止まるってことを教えたのは?
Caiangô カイアンゴー

※このカイアンゴーをラガルチーシャ(ヤモリ)と置いて歌い、
「お前何でも知っているというけど、ヤモリの方が物知りだ
だってヤモリは壁を登れるけど、お前にはそれ、できないからね」
と歌うものもあります。

この歌は、人間が高慢になって物知りを気取ることを皮肉で述べ、
謙虚さを教えています。
シマウマのシマも、ゴキブリの艶も、それは自然の力でしか起こせないことで、
人間にはできない領域です。
カイアンゴーはカンドンブレーの神様の暗喩(闘いの女神ヤンサンの別名)で、
神の力、自然の力の前では人間の力などちいさなものだと諭しています。

参考文献
Nei Lopes “Dicionário escolar Afro-Brasileiro”
“Uma visita ao Museu Afro Barasil”
Frederico Jose de Abreu “Bimba é Bamba A capoeira no Ringue“
Muniz Sodré “Mestre Bimba Corpo de mandinga”
José de Jesus Barreto Otto Freitas “Pastinha”
ブラジル連邦共和国外務省“texts of Brazil” 
「千鳥足の弁証法」 武田千香 東京外国語大学出版会
「ブラジル史」 金七紀男 東洋書店

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