映画 O começo da vida(いのちのはじまり~子育てが未来をつくる~)

わたし自身は子供がいるわけではないし、子育てしているわけでもないのですが、
仕事でジェンダーに関わっていることもあり、「いのちのはじまり~子育てが未来をつくる~」を観てきました。何より一番の理由は、この映画作品が昨年のブラジル・ポルトガル語の試験ででたので(笑)

[いのちのはじまり] http://www.uplink.co.jp/hajimari/
ブラジルでの原題はComeço da vida コメッソ ダ ヴィーダ 
エステラ ヘネーEstela Rennerという、若いブラジル人女性監督によって製作された、多様な子育てを描いたドキュメンタリーです。

予告を観た時は何と無く気がすすまなかったのですが、観終わっていろいろ腑に落ちることがありました。ぜひ多くの方に見ていただきたい作品だと思います。この話は、こどもの話ではなく、こどもを取り巻くおとなの話だからです。

ブラジルの同性愛婚のカップル。
ファヴェーラに住む、27歳で12人の子どもを育てているドラッグ中毒のブラジル人女性。
妻を病気で亡くして、1人で2人の子どもを育てているケニアのシングルファーザー。
夜勤をしながら子育てをしているアルゼンチンの看護士のシングルマザー。
養女を受け入れたインド人夫婦、一方で親の不在に代わって子育てをしている2人の兄弟のおねえちゃん。
病気の子どもの治療費のために、毎日30階建のマンションに荷揚げをしているインド人少女。
自分自身、両親を亡くし、孤児院でこどもたちの母となって働いているケニアの女性も、不在の親のかわりに必死に子育てをしています。
実に多様な子育ての姿が登場します。
はっとするのですが、実親だけではないんですよね。子育てをするのって。
家族のかたちはさまざまなんだなと、改めて思わされます。


私たちが生きている日本社会は少子化が進んでおり、様々な層で孤立化が進んでいます。
子育ての話のようで、それは今を生きる私たちを含む社会の話であり、私たちの未来の話です。言い方があまり良くないけれど、子供1人あたりがこれから背負っていくものは多くなります。その子供達が賢く、逞しく、幸せにいきていかれるように始まりを支えることは、私たち社会そものものの構築でもあり、こどもたちはその社会課題解決の重要な資源でもあるわけです。

ドキュメンタリーの前半はこどもの成長のために、最初の人の関わり方がいかに重要かということを脳科学の面から紐解いていきます。
赤ちゃんの脳は外的な刺激を受けて分裂し育っていくので、様々な関わり方を積極的にすることで、脳を耕していく、つまり土壌づくりをしていくわけです。

この動画に割とまとまっていますが、私が印象的だったのは、大人にとってイラっとする、そしてほとほと疲れてしまうこの瞬間、こどもが同じことを何度も繰り返すとき、裏にこういう状況があるんだなと思えると、許せてしまいそうだなあということ 笑(実際子育てされている方はそれどころではないと思いますが…)
子供はトライアンドエラーを繰り返す中で、どうやったらできるかな?できなかったとしてもそこから、こんなことがおこるんだ!ということを学んでいきます。子供は概ね自分でできないことなので、ほとんど失敗するわけですが、それでもこどもには何度でもエラーなことをしたがります。私は改めて、これって凄いことだなと思いました。あきらめることでもなく、エラーが悪いことだとつゆともおもわず、エラーからどんどん獲得していくわけです。

印象的だった言葉は本当にたくさんあるのですが、仕事の面でも思うことは、世界をよくしていくために、まず子供たちの親を助けるべきだ、という信念でした。
子供の問題というのは、とかくこどもに注目が集まりますが、その子供を育てている両親のことを考える必要があります。

たとえば、育児ネグレクト(育児放棄)についてです。サンパウロの児童心理学者のヴェラ・ラコネリーVera Iaconelliの言葉で
「母親によるネグレクトなんてものはなくて、放棄されたこどもというのは、環境にネグレクトされるのです。もし母親が育児放棄してしまって、こどもの行き場がないとしたら、母親に以外の、その他の人々はどうしたのでしょうか?
その子は「母親だけの」こどもではないはずです。
その子はだれかの孫だし、だれかの姪だし、だれかご近所の人の子どもだし、どこかの地域の市民の1人だし、どこかの国籍を有しているんです。絶対に育児放棄が、一対一で起こるとは、考えてはいけません」

パートナーシップや家事のシェアの話のとき、ポルトガル語では動詞は「Ajudar(助ける)」ではなく「Colaborar(協力する)」を使います。
助けるという言葉は自然と、子育ては母親がするもので、それを手助けするのだという固定観念が入って来ます。
母親にだけ、ネグレクトの責任がいくなんて、確かにおかしな話ですね。

これからも多くの人たちが、父も母も働きながらこどもを育てていくことになります。
発展の過程で、様々なサービスにアウトソーシングが可能になり、仕事と育児の両立はさも可能になっているかのように見えます。
でも本当だろうか、たとえば、仕事が忙しくて育児に関われない両親がいたとして、(映画のコメントを引用)
「もしあなたが職場で上司に、“いや、10分で質の良い仕事を提供します“といっても、1日10分しか仕事をしなかったらそれは通用しないように、赤ちゃんにも “いや、今日10分しか君に関われない。でも、そのかわり質の良い関わり方をするから”といっても、通用しないんです。子供にも、(いや仕事にも)質だけでなく量が必要なんです。」

だから、もっともっと、だれもがこどもに関わって生きられるのが普通な社会にしよう、という話でした。
それは、だからこどもに母親が手をかけなきゃいけないという盲信的なお説教ではなくて、すべての人に役割があって、たとえば映画の中では祖父母にも語り部としての役割があるという例がでてきますが、コミュニティのいろんな人たちとの関わりの中で、こどもの成長を育んで行こうということです。

質ももちろん大切だけど、質や効率を超えて、時間というのも私は大切だと思います。ですから、両親に限らずいろんな人と時間を積み重ねて行くことで、子どもは着実に成長していくのだろうなと思います。
私はよく畑に置き換えて考えるのですが、時間をかけずに成長させた野菜は怖くてたべられないでしょう。時間をかけないと、質だけで解決できることにも、限界があるのです。

最後に、サンパウロの小児科医のJosé Martins Filhoの温かい声で送られたひとことを。

「この現代の世界が持つ最大の孤独は、コミュニティの喪失です。私たちはコミュニティの意義を見失なってしまった。コミュニティに属しているということは、“世界に属している” ということなんです。」

コミュニティに属していること。
コミュニティの醸成、は、この先を生きる大きなテーマだと私は思っているのですが、どんなコミュニティでもいい、地域はもちろんだけど、自分が世界とつながることができる場所をもち、様々な人との関わりの中で自分でを育んで行かれることがとても大切です。

ブラジルでカポエイラをやっていた時、カポエイラの技術よりもたくさんのことを学んだのですが、ひとつが道場のコミュニティにおける役割でした。
映画の中の人たちのように、きょうだいが10人以上いる子もいたし、ゲイの子もいたし、父親がいない子も、きょうだいでそれぞれの親が違う子もいました。シングルマザーも、障害のあるこどもも、家で預かっている親戚のこどもも、みんな一緒に、さながら家族のようにその場所にいました。
地域に根付いているその道場は、いろんな人が行き交い、地域での大切な役割を持っていました。

私はあまり不自由のない家庭に育ったけれど、自分に欠けていたこういうコミュニティ、家族観にブラジルで出会えたおかげで人生が大きく変わったと思います。

この映画に対してのポルトガル語試験での口頭試験の出題は…

「あなたの意見では、こどもが良い人生のはじまりを持つための本質的な“世話”とはなんですか?」
「あなたにとって家族とは?」
「あなたの国の文化圏では、こどもが生まれた時にする儀式はどのようなものが行われていますか?」
「なぜユニセフはこの映画を支援したのでしょうか?」
「“人生の歴史の始まりを変えることで、歴史の全てを変えることができる”という説には賛成しますか?」

などなど。みなさんはどのように答えますか?

上映予定は下記リンクから。
アップリンク渋谷、みなとみらいブリリア ショートショート シアターなど関東はまもなく終わりそうです。
兵庫、大阪、京都、長野でも秋にかけて上映の予定。
http://www.uplink.co.jp/hajimari/theater.php

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