東京外国語大学大学院総合国際学研究院講義レポート1/3

昨年10月に引き続き、東京外国語大学でカポエイラについての講義を担当させて頂きました。

今回は大学院総合国際学研究院の研究員のみなさんを対象に、研究会のテーマである
「ブラジルにおける喜劇性―ユーモア・笑い・遊戯性―」に基づき、カポエイラに何故遊びの
要素があるのかということを探りながら、カポエイラについて少し踏み込んだ内容をお話ししました。

前回はポルトガル語学科の学生の皆さんを対象に、「典型的日本人の自分がどうやって
ブラジルのリズム、文化を身に着けることができたのか」というお話しと、カポエイラの概要が
中心でした。

研究会を主宰されている武田千香教授は、白水社「現代ポルトガル語辞典」の編者の
お一人であり、ジョルジュ・アマード、パウロ・コエーリョなどのブラジルの文豪の翻訳を
数多く手掛けておられる文学研究者です。先生の研究についてはこちら
≪千鳥足の弁証法≫————————

先生の著書「千鳥足の弁証法」を拝読した時、驚きと興奮であっという間に読み終えてしまいました。
ブラジル文化に通底する要素についてこれほど見事にまとめられた書籍があったでしょうか。

この本は、リオの作家マシャード・ジ・アシスMachado de Assis(1839-1980)の作品を
辿りながら、その中にブラジル文化の根幹を探る内容になっています。
基本はマシャードの文学作品を紐解いているのですが、
まるでカポエイラのことを書いているのでは?と思えてきます。


※ブラジルの銀行Itaúのカルチャーサイト“Conexão”にインタビューが掲載されています。

自分の前回の授業の内容が、実にシンクロしていたことに驚きます。
(同じ国のものだから当然なのですが…)
[千鳥足の弁証法]が大変興味深い内容だったので、遊戯性のことよりも先に、
「千鳥足の弁証法」にみるカポエイラとの共通点について序文で触れました。

主なトピックとしては下記の内容をとりあげています。

-1, ウマニチズモ…….人間を宇宙全体に位置づける教義 人間讃歌と弱肉強食讃歌の共存
-2, 相反する[X]極と[非X]極の間を行き来する戦術 
-3, 身体の共生……身体・空間性・音響性の三要素とホーダ
-4, 二分法的な世界観の崩壊と境界領域(リミナリティ)の経験
-5, マランドロ流 malandragem
-6, 他者は同一..…他者になりつつ自分を形成し、他者になってしまうこと。
-7, 別世界-科学から魔術へと移る境…..家,世間,第三世界 casa,rua e outro mundo

このうち、1–ウマニチズモと、5-マランドラージェンについてのみ抜粋します。

[ウマニチズモ]
ウマニチズモは、「ウマニタス」(生の根本原理)を基にする教義で、
「人間を宇宙全体に位置づけ」ます。「人間を宇宙全体に位置づける」って…
いきなり何の話? と思われそうですが、その原理は、人間は誰もが同等で貴重と
おおらかに人間賛美しながら、一方でそこに起こる全てを必然として、しまいには
弱肉強食、適者生存を善とし飲みこんでしまうという、愛すべき相反性の共存です。

“我々人間ばかりでなく、この世のあらゆる生き物の中に平等に宿り、
どんな生き物もこの世界の原理であるウマニタスの化身になるという。
したがってウマニタスはどれもが同等に貴重な存在である。
そしてウマニチズモにおいては、羨望(ねたみ)も、相手のウマニタスの
賛美につながるため、気高い感情として解釈されるほか、
戦争や殺戮などの暴力行為も肯定される”

※武田千香[千鳥足の弁証法]東京外国語大学出版会

という度肝を抜かれるような論を展開させます。
しまいには「ウマニチズモにおいて、本当の意味での存在する不幸は
ただひとつ“生まれないこと”」
と、どこまでも話は大きくなります。
しかし、この大胆な展開に一緒に乗っかると、非常にブラジルが理解し易くなります。
是非ともここはひとつこの教義に乗っておきましょう。

[ マランドロ流 malandragem ]
マランドロが活躍するのは、「何が正しく何が間違っているのか、
あるいは何が正義で何が不正義なのか区別がつかない社会秩序の曖昧な地帯」、
すなわち「秩序と脱・秩序の間の中間領域」になる。それは、[秩序と脱秩序]の
両方を使い、その外にあるものも、構造の厳格な世界の中にあるものも、
そのいずれもを糧として」生きて行く。

※武田千香[千鳥足の弁証法]東京外国語大学出版会

私はこの表現が、メストレ・パスチーニャの言葉「カポエイラは口が食べるすべてのもの」に
非常に近いと思いました。


※メストレ・パスチーニャ
ブラジルという国には、根本に人間讃歌が流れています。
しかし人間を讃歌しながら皮肉なことに奴隷制という相反する歴史を、
矛盾もなく存在させることができます。
隣人を愛せと謳い、一方で人を人とも思わず(奴隷を)死ぬまで鞭打つという現象の混在。 
カポエイラは遊戯であり殺しであるという二面性。
非合法だったカポエイラがこんにちは国家体操になるという変わり身の速さ。
その二極を行ったり来たり、右へ行ったり左へ行ったり、ヨロヨロとジンガしながら、
悪と善、光と影、栄光と退廃、を繰り返しカポエイラはどのように生き延びてきたのでしょう。

≪カポエイラとは何か?≫———————

さて、では一体カポエイラとは何なのでしょう?

この問いに一言で答えることは非常に困難ですね。
あるカポエイリスタは「学校」といい、ある人は「コミュニケーションの手段」といい、
あるカポエイリスタは「家族」といいます。
カポエイラを観たことがない人が聞いたら、なんのことかさっぱりわからなくなってしまうことでしょう。
そして、見たことがある人は今度はさらに混乱に陥るでしょう。

カポエイラは非常にたくさんの要素を持ち合わせています。

伝統芸能
文化遺産
エンタテイメント
アクロバット
ダンス
格闘技
スポーツ
フィットネス
教育
国際理解
歴史
哲学
宗教
社会福祉…

現代においてはフィットネスエクササイズプログラムもありますし、
格闘技で実践している人もいれば、ダンスの振り付けの中に見ることも、
またブラジルでは高齢者へのアクティビティやセラピー、
青少年犯罪における更生手段として福祉でも使われています。

私も、相手によってカードを変えるようなことをしていたかもしれません。
ある取材では「女性のダイエットに最適のスポーツです」と言い、
ある取材では「女性でも楽しめる格闘技です」と答え、
ある取材では「多文化共生に役立ちます」と答え、
リアルに青少年犯罪の更生のためにカポエイラが良い影響を与えたことに感動し、、
日本国内で働くブラジル人達が余暇の楽しみとして歓びを持ってカポエイラを
するのを目の当たりにして心打たれました。
それらはその時々時々で真実でありました。

しかし、では本当のところカポエイラとはなんでしょうか?
メストレと呼ばれる人たちはいったいそれをどう弟子に伝えて行くのでしょうか?

そんなカポエイラを、カポエイラの歴史史上非常に重要なカポエィリスタ
メストレ・パスチーニャはこう表現しました。

Capoeira é tudo que a boca come.「カポエイラとは口が食べる全てのものだ。」

私はこの言葉を、「悪いものを口にすれば悪い結果が、良いものを口にすれば
良い結果が表れる」(使い方次第)のようなカルマ的発想で捉えていました。
ですが、良いことも悪いことも全てを飲み込んで糧とするような、
カポエイラの力を表している様にも思えてきます。

メストレ・パスチーニャという人物について、メストレ・デカーニオはこのようにコメントしています。

———–
Sem Pastinha, a capoeira seria hoje apenas uma nova marcial, 
nu mercado dominado pelas orientais.
Pastinha foi o guardião da liberdade de criação.
Da inocência dos componentes lúdicos, da beleza da coreografia. 
O gênio que desvendou, em palavras simples e puras, 
os aspectos místicos da capoeira.
(Ângelo Decânio Filho)
パスチーニャが存在しなかったら、
今日カポエイラは東洋の市場に支配された中で、
ただの新種の格闘術にすぎないものになっていただろう。
パスチーニャは創造の自由の守護神であった。
遊びの要素の無垢さと、美しい振付と。
この天才は、シンプルで純粋な言葉に、
カポエイラのミステリアスな側面をあらわにしたのである。
※“Pastinha”  P127 José de Jesus Barreto e Otto Feitas 

———–

実に簡素で無防備な言葉に困惑してしまいます。
外国語というだけではなく、そのシンプルな言葉に、むしろ複雑性が込められており、
謎は深まるばかりです。
しかし、まるでありのままに語っていながら、どこか謎めいているからこそ
この言葉は今なお多くのカポエイリスタを魅了し、追い求めさせてやまないのでしょう。

「Tudo que a boca come(口が食べる全て)」というフレーズは、カンドンブレーの
神様 エシューExu を表現する時にも使われる言葉です。

「Exu a boca que tudo come (エシュー すべてのものを食べる口) 」

エシューはカポエイラ使いと考えられており、伝説のカポエイリスタ、ビゾウロ・マンガンガーも
守護神にエシューを伴っていたと言います。バイーアを代表する作家ジョルジュ・
アマードも自分の財団の守護神をエシューにし、このフレーズを記しています。

※ジョルジュ・アマード財団のロゴ。左がエシューです。


※ジョルジュ・アマード財団サイトより

エシューは物事の二面性、例えば生と死、善と悪、光と影、物質世界と精神世界を
行き来するメッセンジャーで、物事が交差する交差点に存在すると言われています。
エシューはbrincalhão(ブリンカリャォン)で、つまり大層なふざけ屋と呼ばれています。
一般的には呪術・黒魔術をかける悪魔と考えられていますが、
純粋な善なる願いも、怨念や復讐の願いもどちらも願いのままに起こしてしまいます。
エシューは交差点の真ん中で最上級のカシャーサ(サトウキビ酒)を飲んで
シャルート(葉巻)をふかし、選択の真ん中で佇んでいます。
すなわち、選択する人の心次第、行動次第でどちらにでも転ぶのです。

二面性、二極性の共存はカポエイラを考える上で非常に大切な要素です。
そしてその二極を行き来する術とはなんだったのか、しかもそこを行き来していた
エシューがふざけ屋であり、カポエイラ使いとは、エシューとの関係からはカポエイラの
遊戯性を理解させてくれるヒントが潜んでいそうです。

≪“カポエイラをする“ 動詞≫———————

カポエイラをする、という動詞には、現代においては次の3つが主に使われています。
やはり言葉からも「遊ぶ」「ふざける」といったニュアンスが伝わってきます。

1, vadiar ヴァジアール
2, jogar ジョガール
3, brincar ブリンカール

早速辞書を引いてみましょう。
※白水社「現代ポルトガル語辞典」より

1, vadiar / vadiação 
①職なしの、ぶらぶらしている
②放浪している
③暇(無為)な
④怠ける 
「ヴァジアール/ヴァジアサォン」は、パラグアイ戦争以降のリオ、ヘシフェ、
バイーアでフーテン、無職放蕩を指して使った言葉です。
非合法時代に警官にカポエィラをさせてもらう話をつける時の言い方でもあり、
「vadiaçãoをやらせておくれよ(ちょっと遊ばせてくれよ)」のように使われて
いたそうです。vadiaçãoという言葉は、「遊び」というニュアンスで「カポエイラ」
そのものののことも指していました。

2, jogar / jogo  
①[ゲーム・スポーツなどを]する。して遊ぶ 
②賭ける 
③巧みにあやつる ④ふざけて言う 

Jogar「ジョガール」 はやや一般的で、サッカーなどの競技一般でも使われる言葉ですね。
カポエイリスタのみなさんにはやはりVadiar Jogarがしっくり来るのではないでしょうか。
「カポエイラしようか」という時に Vamos vadiar? Vamos jogar? というフレーズは
カポエイラをしている人なら世界共通で通じます。

3, brincar / brincadeira  
① 遊ぶ 
② 楽しむ 
③ 踊りまわる 
④ 冗談を言う、ふざける 

brincar「ブリンカール」は、そのまま「遊びふざけること」で、日常生活で使われる非常に
一般的な動詞です。

4, lutar  
①戦う,争う,けんかする; 競争する 
②努力(苦闘)する 
③格闘する, レスリングをする

最後に、カポエイラにはもちろん闘いの要素がありますので、4に「lutar ルタール」という
動詞も存在するということを加えます。
ですが私はまさか「Vamos lutar?」とカポエイラに誘われたことは一度もありませんし、
そんな状況はよっぽど白黒つけるような時かな、とも思います。

次はカポエイラの歌の中にその動詞を探してみましょう。

≪カポエイラの歌詞に出てくる動詞≫————————

Mestre Toni Vargasの非常に美しいメロディーで有名な
「Moleque do morro」という曲があります。

—Capoeira, Meu povo, olhe o povo jogando a noite inteira
カポエイラ、ごらん、みな夜通しカポエイラをして(遊んで)いる…

Mestre Fanhoの有名な曲「Dia de Festa」にも耳に残るフレーズがあります。


Hoje quero jogar capoeira    今日はカポエイラがしたいんだ
Ver mandinga pra lá e pra cá  あっちにもこっちにもマンジンガをみたい
Essa luta essa dança querreira この戦い、この闘いの踊りは
Faz meu corpo se arrepiar…   私の身体に鳥肌を立たせる
Brincadeira, mandinga  遊び戯れて マンジンガ(演歌のタイトルみたいですが…)
No molejo do corpo mamolejá 身体のばねで 揺れて
Brincadeira, mandinga  ふざけて マンジンガ
No remelexo do corpo, mamolejá 身体の揺れ 揺れて…

こういった、人々が楽しそうにカポエイラをしている姿を思わせるような
カポエイラの歌はいくつもあります。(同時に悲しい歌もいくつもあります)
このような歌を美しいと感じさせることの理由に、カポエイラと遊戯が関係する
ように思います。
カポエイラは遊び、という表現がひっかかるカポエイリスタがいるかもしれません。
日本では遊びは主に「不真面目なこと」ととられることが多いですね。
しかしブラジル人にとって「遊び」の反義語は「真面目」ではなく、
「日常」なのです。つまり遊びは「日常」に対する「非日常」と置き換えられます。

私は、カポエイラに遊戯性があるのは、実際に奴隷制や弾圧の時代の過酷な日常において、
せめてもの余暇時間のカポエイラやサンバ、バトゥーキが、「本当の遊戯」だったからだ
というのがひとつの答えだと思っています。
集い戯れることを通じて、残酷な現実、耐えがたい屈辱と苦役の日々を傍らに置くことができ、
その時間だけはみずからとして存在できる歓びがカポエイラの中にはあったのではないかと
思えます。その歓びの表現が観ている人や聞いている人の心を感動させるのではないでしょうか。
虐げられた人々は「遊ぶ」ことで少なからずその時は精神を解放できたでしょうし、
心も身体も癒され魂は充足されたことでしょう。

この説を確かにしてくれるのが、カポエイラの偉大な研究者Frederico José de Abreu
(昨年2013年7月に亡くなられました)のバトゥーキについての資料です。

≪バトゥーキ Batuqueとは≫————————
…バトゥーキという言葉は、当時広い意味でつかわれていて、黒人たちの民族的な
表現活動全てを指していました。…ほとんどの場合、皆で集まって、打楽器を叩き
ながら踊るというものでしたが、それをどれもバトゥーキと呼んでいたのです。
神聖な儀式でバトゥーキをすることもあれば、遊びでやる場合も儀式と遊びを分けて
やる場合もありました。サンバも、カンドンブレもカポエイラもその他の黒人たちの踊りも
遊戯もそれぞれ異なったものではありますが、全てバトゥーキと呼ばれていたのです。

…外国人の年代記執筆家たちは、奴隷たちが、無理やりに働かされ辛い労働を
終えた後に、バトゥーキにのって活き活きと活気づく様子を見て、目を見張っています。

…バトゥーキは黒人にとっての喜びの源であり、不幸な人生に打ちのめされた身体に、
再び命を吹き込む役割をしていることがわかったそうです。ルゲンダスによれば
「我々は、自分たちの前にいるのが奴隷であるのだと、自分自身に言い聞かせたが、
とうてい信じることができなかった」…これを見ると、バトゥーキ(つまり、カポエイラ、
サンバ、カンドンブレや黒人たちの楽しみ)は、奴隷たちにとって、奴隷制度によって
奪われた人間性を取り戻してくれる時間だったのではないかと思えるのです。

※ ブラジル連邦共和国外務省発行「Texts of Brazil」Frederico José de Abreu“カポエイラ弾圧時代”p36


※サントアマーロでのサンバ・ジ・ホーダ メストレ・マカーコ 夜遅くまで続きます

奴隷制の歴史上重要な場所であるサントアマーロ※を訪問した時、メストレ・マカーコ
からいわれた言葉があります。
※サトウキビ生産の中心となった土地で、200以上のエンジェーニョ(農園)が
あったとされ、多くのアフリカからの奴隷が労働していました。
「カポエイラとは自分自身の表現であって、自由な表現であり、自分自身を発見し、
自分自身であることなんだ。だから必ず、喜び・自分自身がやりたいという気持ちを
持ってカポエィラをすることが大事だ。それがカポエイラの癒しなんだ」

この時初めてterapia(癒し)というポルトガル語を覚えたのですが、何故カポエイラに
癒しの力があるのか、この時は自分が余り傷つくこともなくカポエイラをしていたので
(どちらかというと傷つける側にいました…)わかりませんでしたが、今となっては
その意味がよくわかります。
当時のサントアマーロは、主従関係・絶対服従の日々で、奴隷たちは理不尽な
要求や侮蔑、死と隣り合わせの日常であったのでしょう。
せめて非日常ではその境界を越え、生きていることを喜び、感じ、
自由に表現してよいのがバトゥーキ(カポエイラ)の本質であったのでしょう。

さて、話をカポエイラの歌に戻しますが、楽しい歌の一方、
今度は歌の方から急に“冗談じゃない“と言われたりします。
—-
Capoeira estrangeira meu irmão é mato
カポエイラはガイジンにとっては「森」かもしれないが
(辞書を引くとそう書いてあるだろうが)
Capoeira brasileira, meu irmão é de matar
ブラジルのカポエイラは「殺し」なんだ

—-
Serra pau serra madeira
棒っきれをぶったぎってやれ 木にノコを入れてやれ
(やっつけてしまえという暗喩)
A turma de Bimba não é brincadeira
ビンバ団は冗談じゃないぜ(マジなんだ)

と、滑稽ともいえるような、「結局どっちなの?」という疑問は極めて自然に湧いてきそうです。
先ほどのMestre Fanhoの歌にも、Brincadeira..のコーラスの前には
(カポエイラは)「戦い(luta)、戦闘の踊り(dança querreira)」と歌っています。

遊んでいたかと思えば、急に殺してしまう、表だと思っていたコインがすぐに
裏返るようなその変容と二面性は、カポエイラの歴史の中にもその姿を見ることができます。
では、カポエイラはいったいどのような歴史の中を、姿を変えながら生き延びてきたのか、
次の回で振り返ってみたいと思います。

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