カショエイラCachoeiraへの旅とカンドンブレー
2016年7月に9回目のブラジルへの旅に出ましたが、今回の旅の大きな目的に、バイーア ジ ヘコンカヴォを知ってみたいというものがありました。
そもそも盛り込みすぎている旅なので、本当に時間が限られているのですが、たとえ一日でも、Cachoeiraカショエイラ, São Felixサォン・フェリックスを訪れてみたくて、Santo Amaroサント・アマーロからCachoeira に行く二泊の旅行の計画をたてました。
バイーア ジ ヘコンカヴォは多くのアフリカからの奴隷がサトウキビ栽培労働に従事させられていた農園が広がる地域で、今なおアフリカ系の人が多い土地です。
ここにはカポエイラを理解する、すなわちアフリカを出自とする人たちを理解する様々な歴史の姿があります。カポエイラ・ヘジォナウの創始者であるメストレ・ビンバはメストレ・パスチーニャとマスコミ向けにしたディベートの中に「黒人は、そうとも、アンゴーラから来た。しかし、カポエイラはカショエイラから、サント・アマーロから、イリャ・ジ・マレーからだ、カマラー」という言葉を残しています。
今回はカショエイラとフェイラ ジ サンタナで、カンドンブレー(アフリカからやってきた人たちの宗教)の2つのテヘイロ(宗教儀式の場)にお邪魔する機会があったので、そのことについて書きたいと思います。
カショエラはサルヴァドールから西へ120キロくらい、フェイラ・ジ・サンタナは北へ同様に120キロくらいのところです。カショエイラでは特に知り合いがいないので、独自に宿を取りました。フェイラ・ジ・サンタナは友達のカポエィリスタが事前にフェスタの日を教えてくれていて、招いてくれました。
カショエイラに到着してから偶然、宿主が案内してくれたハンセンミュージアムでばったり会ったヴァウミーおじさんが、これからガイドで、奴隷たち(のちに解放となったひとたちも)が通っていた教会と、テヘイロに行くというので、一緒に連れて行ってもらうことに。
※ヴァウミーさん。この後ろの階段を延々上がっていく先に教会があります
このテヘイロは、Caboclo de Guarani de Oxossiカボークロ グァラニー ジ オショーシというテヘイロで、Nação Brasileiraナサォン・ブラジレイラという系列にあたるものでした。ナサォン ブラジレイラは、アフリカから連行されて来た奴隷と、原住民インディオとの混合宗教です。
※テヘイロの入り口。入り口の扉に花瓶があるのが目印だそうです。
カンドンブレーをイメージする時、それはヨルバのもの、という印象を持つ人が多いと思います。私もそうでしたが、カンドンブレーが非常に多様であるということを知りませんでした。
おそらく、カンドンブレー・ジ・カボークロCandomblé de Cabocloもナサォン ブラジレイラと同義なのではと思いますが、カボークロ・アンゴーラという派もあるようで、多様すぎるカンドンブレーの流派をカテゴライズするのがまだまだ難しいです。
※入り口で頭に水をかけます。インジオの宗教的な意味があるのですが、ここはよく理解できませんでした…
ナサォン ブラジレイラはつまり、奴隷になることを受け入れなかった原住民インディオと、森に逃亡してきた奴隷のふたつの融合で生まれた宗教なので、インディオの神々と、アフリカの神々と両方を崇めています。
※左側・原住民インディアンの信仰
※右側・プレットヴェーリョなどのアフリカ由来の信仰
メストレ ビンバの母はTupinanbáトゥピナンバというインディアンで、父親がアフリカ・バントゥ系だったため、カンドンブレー ジ カボークロのテヘイロに通っていました。ビンバが残した興味深い言葉に、「カンドンブレー・ジ・カボークロは、アフリカのそれよりも強い。なぜなら〝根〟と働いているからで、黒人たちは〝葉〟と働いているからだ。」というのがあります。ビンバは14歳から20歳まで、サルヴァドールのエンジェーニョ・ダ・ブロッタスにあるカンドンブレー・ド・セニョール・ヴィダルのテヘイロに通っていました。
さて、話はカショエイラに戻ります。
※ずっと丘を上がったところにまず教会があります。
グアラニー・ジ・オショーシの人々は現世を外界と考えていて、肉体的な死を死ととらえておらず、精神世界における生が本物であると考え、物質的に死んでもそのひとは常に共にあるという考え方をします。
「母」や「父」と言う時にそれは血縁家族ではなく、自分を外界で導いてくれる宗教上の存在を指し、「イアオリシャ(女性)」「ババオリシャー(男性)」と呼びます。※グアラニー・ジ・オショーシではPai de Santoパイ・ジ・サント, Mãe de Santo マンイ・ジ・サントという呼び方はしません。
様々な表象が家の中にあるのですが、ここのイアオリシャーはアンゴーラのケトゥKetuの出身なので、ケトゥを讃えているそうです。(Jeje, Ketu, Angola,Nagoなどがあります)
※これはカンドンブレーの方の信仰でしょうか。
カンドンブレーには様々な役割と階級がありますが、根幹を成すのはVodum, inkices, orixá, espíritoです。どれも訳すことができませんが、神々にあたるものと捉えて良いのではないかと思います。いうなればババオリシャーBabaorixáやオガンOgaなどの名称は現世の人間の役割や階級を示しており、その上に存在するのが上記の神々です。
グアラニー・ジ・オショーシの特徴は混合宗教なので、寛容です。
この家の中には、前述のケトゥのカンドンブレーと、インジオの宗教の他に別部屋にカトリックの聖人がまつられています。
※棚の上には数々のオリシャーの像が。
このテヘイロは共同体として食事や衣服の提供をしたり、Cigano Salaシガーノサーラの祭りや、Negra Nagoネグラナゴーという、Maria Congaマリアコンガという女性を讃える祭りなど、 生まれを超えて様々なお祭りを催してきました。(しかし、資本主義的な発想が主流になってから、何事も資金が必要になり、様々な祭りが開催できなくなったそうです)
カショエラの宗教と歴史を語る時に重要なのがNossa Senhora da Boa Morteノッサ・セニョーラ・ダ・ボアモルチです。ボアモルチ祭は毎年8月に行われるカトリック式の、アフリカを出生とする元奴隷の女性(女性のみという点がポイント)の混合のお祭りです。40歳以上の、奴隷を祖先とする女性だけが正式な式に参加できるという珍しい特徴があります。
カショエイラはサトウキビ農業に従事させるためにたくさんの奴隷が連行された土地ですが、そこでCasa grandeカーザ グランジ(支配者の大邸宅)に使用人として出入りしていた奴隷の女性たち(Mucanbaムカンバと呼ばれました)は、こっそり大邸宅から食べ物や日用品を持ち出し、奴隷小屋で待つ奴隷たちに与えただけでなく、それで手仕事を始め、作ったものを売ってはお金を稼いで、奴隷を買い戻しました。この活動をして“Movimento da ganhadeiras e o movimento mulheres de ganho(モーヴィメント・ダ・ガニャデイラス イ オ モーヴィメント ムリェーリス ジ ガーニョ)” といいます。リオオリンピックの閉会式でもイタポァンのガニャデイラ(ガニャデイラは辞書によると「どんな仕事でもする人」とあります)のバイアーナが糸紡ぎの仕事をしているシーンがありましたね。
こういった女性たちはサルヴァドールのBarroquinha(バホキーニャ)に土地を購入し教会を設立しました。(おそらくそれがホザーリオ教会のことではないかと)※読んだ方からのアドバイスをいただき、これはどうやら、Nossa Senhora da Barroquinha教会そのままだそうです。情報ありがとうございました!バホキーニャとヴェントゥーラを中心に女性たちの活動が広がっていき、女性たちの主催による初めてのテヘイロを獲得しました。
1888年に奴隷解放を迎えるわけですが、前後で女性たちの活躍が背景にあって、現在のようにカショエラでは8月は聖母マリアを祝祭するカトリックーアフロのお祭りが行われているというわけです。
こういった歴史にもわかるように、カショエイラは非常に宗教色の強い土地で、混合宗教が進んでいます。グアラニー・ジ・オショーシのテヘイロにはインディアンの信仰と、アフリカの信仰のミックスであるだけでなく、カーテンの向こうにカトリックの聖人をまつっている一角があり、これはカモフラージュのためでしたが、奴隷解放が行われた時に、「奴隷制は終わったんだし、聖人はいらないんじゃ」という声に、
「アフリカから来た精神だけではなくて、カトリックの精神もここにやってきたんだ、ムスリムだってそうだ。」という声があって、このように共に存在しているのだそうです。ただ、カショエイラにおける最も力のあった宗教はやはりカンドンブレーでした。
※カトリックを示す一角
思えばカポエイラという言葉は、一説にトゥピ語が語源といわれています。インジオについての知識が薄いのですが、確かに逃亡奴隷たちが出会ったのはインディオたちであったことでしょう。
インディオ、アフリカを抜きにしてカポエイラ、ブラジル文化は語れないのだなあと、改めて思い、広大なブラジル、豊かなノルデスチの文化を知った良い経験でした。あとはおまけの写真でカショエラを少しご紹介。
※顔がビビってます。構えすぎました汗
※こんな穏やかな地区の、子供達がサッカーしているような風景の中にあります。この日はフェスタはないので、見学だけです。
※美しいカショエイラの夜景を丘の上から。
※平和なパラグアス川に映る街並み
※奴隷たちが祈りを捧げた教会。
※アフリカの王が眠るお墓だと言っていました
※奥にみえる四角い穴がそれぞれのお墓
※サトウキビののちのカショエラの産業を支えたのはタバコ産業をでした。
※化学物質をつかっていない葉巻を全て手作業で巻いていきます
※ここはダニマというドイツ系タバコ工場です。ガイドしてくれたのはメストレ・メジシーナの弟子のフィリッピ
※川沿いにメジシーナのグループが練習していました。メジシーナの娘さんがいらしていました。かかっている音楽はレゲエだったけど・・・
※夜は川沿いを地元の青少年ブラスバンドが練習していました。のんびりした自由な雰囲気。
※宿泊したBuena Vida 超オススメです。宿主のフェリッピのおかげでいろんなことが叶いました。
Lá Boena Vida Tripadvisor(私もリコメンドを書きました)
※パラグアス川の朝焼け。水面に雲が鏡のように映っています。
※この辺りの名物といえば、マニソバです。
思いがけず長くなったので、フェイラ・ジ・サンタナのレポートはまた別に記載します…