東京外国語大学大学院総合国際学研究院講義レポート2/3
第1パートでは、「千鳥足の弁証法」からみるウマニチズモとマランドラージェン、
カポエイラとは何かという大層なテーマ、カポエイラの二面性・二極性について、
「カポエイラをする」という動詞から読む遊戯性、カポエイラの歌と、
バトゥーキについて述べました。ここから、カポエイラの歴史の一部を
辿りながら、その変容、二極性について見てみたいと思います。
≪カポエイラの変容の歴史≫
【1500年代】
ブラジルは1500年に発見された若い国です。
原住民インディオと、侵略者のヨーロッパ人(当初はポルトガル)、奴隷として
連れてこられたアフリカ人で構成する社会でした。
アフリカ人たちは労働力として売買され、彼らの労働と犠牲でなる
パウ・ブラジルの輸出と砂糖の生産で国は発展します。
1538年 最初の黒人奴隷が到着
1549年 サルヴァドールが首都となる
1570年 インディオ奴隷化禁止令。奴隷の輸入急増・砂糖生産増大
カポエイラの歴史についてお話しをさせて頂くとき、私は必ずこの資料を紹介します。
サンパウロにあるアフロ・ブラジル博物館の、児童向けのパンフレットに記されている文章です。
※Uma visita ao Museu Afro Brasil p,4
…アフリカの様々な土地から人々は強制的に連れ出されました。
その旅程ではもちろん彼らは何も持ちだすことを許可されませんでした。
では、彼らはいったい何を持って行ったのでしょう。
心に思い出と、音楽と、魂と、信仰と、儀式と、神々と、習慣という、
身体に残ったものだけを携えて、恐怖の航海とこれからの人生すべてを
乗り切らねばならなかったのです。
こうして連れてこられた人々の「身体」をもってカポエイラは生まれ、
現在まで受け継がれてきていました。記録するすべもなく、五感を
フルに働かせて、すべてを身体に刻んでいったのです。
サルヴァドールの港に下ろされた奴隷たちは、サントアマーロやカショエラ、
サン・フェリックスといった地域で砂糖の生産に従事させられます。
奴隷の耐久年数は平均7年で、平均寿命40歳程度だったといいますから、
その労働や待遇は壮絶なものであったことでしょう。
彼らが奴隷としての生活のわずかな余暇で故郷の音楽を歌い踊ったり、
信仰するという形でバトゥーキを奴隷小屋でかろうじて繋いでいたのでしょうが、
奴隷小屋(センザーラSenzala)でのカポエイラは現在歌でも多く歌われていても、
その実態を表すような記録に出会ったことはありません。
※奴隷制時代の資料は焼却隠滅されていること、そしてそもそも奴隷の生活の中で
注目され記録されるような部分ではなかったからでしょうか。
【1600年代】
キロンボ・ドス・パウマーレス
この時代は逃亡奴隷集団集落Quilombo dos Palmares(キロンボ・ドス・パウマーレス)の
リーダーZumbi(ズンビ1655-1695)が活躍した時期で、奴隷制の歴史においては
「レジスタンス」がキーワードです。
1678年にはペルナンブーコ州の逃亡奴隷は30000人を数えたと言われ、
州にとってキロンボは脅威でした。ポルトガルは11もの派遣軍で応戦しますが、
森や山の中でのパウマーレスの戦術は、武器も軍用品もない状況にも関わらず
非常に有能であったそうです。
ここで現代のカポエイリスタは、武器がなく肉体で戦ったキロンボにおいて
カポエイラが活用されたのではないかと期待を寄せますが、
残念ながらそのような資料は残っていません。
ズンビは、黒人の英雄・自由のシンボルとしてカポエイラの歌の中で幾度となく
讃歌されています。現在の視点からつくられた歌ですが、キロンボの自由自治
コミュニティで楽しみとしてカポエイラがされていたように歌う歌なども存在します。
キロンボのレジスタンスが50年に渡って続いたことは、奴隷たちがいかに
強靭で、強力な力をもち勇敢であったかを示しています。
※リオのプラッサ・オンゼにあるズンビ像。アフリカの王の冠を被っています。
【1700年代】
1763年 サルヴァドールからリオへ遷都
リオの警察史にみるカポエイラ
「カポエイラ」という言葉が文字として残っている資料は、1800年代に
認められていますが、引用として使っている文書ではリオの警察史に
1700年代に既に「カポエイラ」という名称が使われていることが確認できます。
…1770年の時代に、軍の将校でジョアン・モレイラという中尉がいた。
「謀反人」というあだ名で、ものすごい力持ちの熱血漢だったが、
おそらくこの人物がリオで最初にカポエィラをやっていた人ではなかろうか。
なぜならモレイラは、刀やナイフ、こん棒などの武器は使わずに、頭突きや足蹴りで
戦うのが得意だったからだ。
※Estudo historico sobre a policia da capital federal de 1808 a 1831,
primeira parte imprensa nacional rio de janeiro,1898 p,56[Text of Brazilより]
【1800年代前半】
1822年 ドン・ペドロ「ブラジルの独立」を宣言
ルゲンダスの絵「Capuera カプエラ」
1800年前半はカポエイラの歴史資料で重要なルゲンダスの絵「Capuera カプエラ」が象徴的です。
※1835年「Capuera」Johann Moriz Rugendans
ドイツ人の画家モーリッツ・ルゲンダス(1802-1858)は、ブラジルを旅した際に
この絵を残し、下記のようにコメントしています。
…黒人たちには、もうひとつ別の、もっと乱暴でケンカのような、
カポエィラという遊びがある。
これは二人の闘士が、互いに相手の胸めがけて突進して頭突きをくらわし、
相手を倒そうとするものだ。横っ飛びや払いで、巧みに攻撃をかわすが、
頭から相手に突っ込んでいくさまは、さながらヤギのようだ。
時には、頭と頭が全力でぶつかりあい、そうなると、この悪ふざけが
本物のケンカと化してナイフが登場し、流血さわぎとなることもある。
この描写とコメントは興味深く、ルゲンダスはカポエイラに「遊び」を見ています。
しかし、この絵は重要資料ですがあくまでも一枚の絵にすぎません。
広く多様なブラジルのとある一時に過ぎないことを頭のすみにおいておきましょう。
カポエイラ研究の重要人物Frederico Jose de Abareuは、
多くのミステリアスな言い伝えがカポエイラにはあると述べ、
様々なことを証明する文書が存在するであろうけれど、
カポエイラの謎においては「Documentação também é mito 証書だって神話なのだ」
(それすら何が本当かなんて証明しないし、わからない)とさらりと述べています。
1830-1890年 カポエイラ軍団「Maltaマウタ」
1830-1890年 はリオにおけるカポエイラ軍団「Maltaマウタ」の時代です。
マウタは、「ウエストサイドストーリー」のシャーク団とジェット団のように
「ガイアムン団」「ナゴー団」などなわばりを分けて争っていました。
マウタ達はカポエイラを格闘術として習得し、政治家と癒着して世間の闇で
暗躍したと言われます。足蹴りの練習や頭突きの他、ナイフやかみそりなど
を使った攻撃なども練習していたようです。
【1800年後半】
1864-1870年 パラグアイ戦争
パラグアイ戦争では、軍隊に入隊し参戦した奴隷は解放となったため、
多くの奴隷がブラジル兵として出兵しました。
もともと強靭な身体を持っていた奴隷たちは、
「手には武器がなく、脚にはカポエイラ」のような表現になるほど、
接近の肉体戦で大活躍したと言われています。
戦争に向かう時は世間のゴミのように扱われていた奴隷たちが、
凱旋してみればさながら英雄のように迎えられたのでした。
1888年 奴隷制廃止
350年に及ぶ、南米で最後の奴隷制が終りを告げます。
奴隷たちは解放された身分であることを証明するcarta de alforria」を手にします。
※ジョゼ、肌の色・黒。おそらく66歳。独身。出自奴隷。
※Uma visita ao Museu Afro Brasil p,17
1888年-1889年 Guarda Negra グアルダ・ネグラ
しかし解放後の元奴隷たちはもちろん仕事はなく、生活は苦しく、偏見もある
非常に厳しい状態でした。そうした放浪の元奴隷たちに目をつけ、組織した
「Guarda Negra グアルダ・ネグラ」が誕生します。
グアルダ・ネグラはイザベル女王の護衛隊/秘密結社として働きます。
カポエイラが “ならずもの”のイメージをもつのはこのグアルダ・ネグラによるところが
大きく、グアルダ・ネグラは政治家と癒着し、選挙の場で暴挙したりと悪用される
ようになり、カポエイラは完全にアウトローの世界のものと貶められます。
1890-1930年 カポエイラ弾圧時代
1890年 ブラジル合州共和国刑法 第13章 条例402号により
カポエイラはいよいよ非合法と法律で定められてしまいます。
—カポエイラとして知られる敏捷な身体能力を駆使する運動を、
公共の道路または広場で行うことを禁止
こうして「対・支配者」だった構図は「対・警察」になります。
伝説のカポエイリスタ、ビゾウロ・マンガンガー(Besouro Mangangá 1895-1924)が
取り上げられたビリンバウを巡って警察と騒動を起こすという事件などが続き
カポエイラは警察から厳しくマークされるようになります。
【1900年代前半】
カポエイラは非合法となり不遇の時代でしたが、そこへ二人のカリズマが登場します。
メストレ・パスチーニャ(カポエイラ・アンゴーラ) (左)
Mestre Pastinha / Vicente Ferreira Pastinha 1889-1981
メストレ・ビンバ(カポエイラ・ヘジォナウ) (右)
Mestre Bimba / Manoel dos Reis Machado 1899-1974
二人が活躍した時代性としては、ジェトゥリオ・ヴァルガス大統領による
「統一国家ブラジル」の樹立がありました。
当時のブラジルは愛国心を高めるべく、「ブラジリダージ(ブラジルらしさ)」が注目されており、
幸か不幸かブラジル生まれのカポエイラは恰好のツールとして推奨され、
カポエイラは話題のものとなり、フィーバーともいうべき現象になります。
1928年には「国家の体操“カポエイラ闘技”のやり方と規則」という教則本まで発刊され、
「カポエイラ」と声に出すのもはばかられていたはずが、いきなり“国家体操”に変化します。
1937年にメストレ・ビンバの道場の経営権利が法的に許可されたことで、カポエイラは
合法のものとなり、ヴァルガス大統領の前でパフォーマンスをするという地位向上を見せます。
【1900年代後半】
1960年 ブラジリア遷都
1960年以降は、ブラジルは軍事政権となり検閲など表現の自由が規制されるようになります。
1970年後半からカポエイラは海外へと出て行くようになり、様々なスタイルを携えて、
世界に支部を持つような団体も出ます。
1990年には日本からもカポエイラを追い求めた人たちがブラジルへ渡り、
また日本の入国管理法改正により日系ブラジル人が日本へ出稼ぎにやってきたことから、
カポエイラが日本にも伝わります。
言葉がわかりあえなくともコミュニケーションが可能なカポエイラは世界で愛されるようになり、
グローバル化が進み現在は5大陸150ヶ国で行われています。
日本のカポエイラは多くの熱意ある先達の誠意ある研究と努力をもって発展し、
国内に40団体以上を数え、(日本国内支部は含まない)日本人のメストレが生まれるという、
ブラジルも認める素晴らしい質をもって評価されています。
※IPHAN(Instituto do Patrimônio Histórico e Artístico Nacional)サイトより
2008年、いよいよIPHANによりカポエイラはブラジル無形文化遺産として登録されます。
今やブラジルを代表する重要な文化遺産として、ロンドンオリンピックの閉会式でも
演じられるまでになりました。
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1600-1800年前半 奴隷制における余暇活動・遊戯 Batuque
1700-1800年前半 奴隷制におけるレジスタンス活動・闘い Quilombo
1800年半ば パラグアイ戦争における戦力 Guerra do Paraguai
1800年後半 奴隷解放 Abolição
1800年前後半 政府による秘密組織・アウトロー集団 Malta, Guarda Negra
1900年初頭 政府による弾圧時代・非合法化
1930年代 政府による奨励時代・合法化
1960年代/1970年代 国内で発展
1980年代 グローバル化(アメリカ・ヨーロッパへ進出)
1990年代 日本へ流入
2008年 ブラジルの無形文化遺産に登録
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カポエイラが辿った歴史を、Pedro Rodlfo Jungers Abibは見事に表現しています。
—カポエイラは変貌しては順応し、反乱を起こしては静まり、
創造と再生を繰り返し、自己防衛の手段となり、殺生すら行いながら、
今日では教育手段になってしまうという道を歩んできた。
ブラジル連邦共和国外務省発行[Texts of Brazil]p,72「カポエイラの神秘と魔術」
さながら陰と陽のように、カポエイラは二極を行ったり来たりしながら、
生き延びてきました。
歴史の流れを見ていくと、カポエイラに遊戯性が表れるもうひとつの理由として、
レジスタンスや弾圧の時代には、遊びやダンスにみせかける、という必要性が実際に
あったからだと言って良いでしょう。
「奴隷が手かせをはめられていたので足技が発展した」といういかにもわかりやすい説は
信ぴょう性がないことはわかっていても、
「ダンスにカモフラージュした」ももはやアブレウの「証書だって神話」説を聞くと、
多くのメストレの言葉にあっても、それすら疑わしく思えてきてしまいます。
…本当にダンスにカモフラージュしたのだろうか?
いや、そもそもダンスから来てるのでしょう? など諸説ありますが、
支配者や警察の監視下にあった時代に、その闘いをダンスなのか遊びなのかわからない
かたちをとっていたのは状況が創った必然だったのではないでしょうか。
——-
歴史を見て行く中で、ひっかかることがあるのですが、それは二人の偉大なメストレの死です。
メストレ・ビンバは、1974年2月5日74歳ゴイアニアで亡くなります。脳卒中でした。
ビンバはカポエイラのために良い環境を用意するという誘いに乗ってサルヴァドールから
ゴイアニアに移住しますが、行った先では思うように運ばず、息子の言葉によれば
「私の父はバンゾBanzoで亡くなった。この先のカポエイラの姿を見る悲しみで」
というほど、深い悲しみのうちに故郷から離れて亡くなりました。
Banzoは、アフリカを思い詰める郷愁で食事ができなくなり衰弱死する鬱病の一種を指す
言葉で、実際この病気で亡くなった奴隷がいたそうです。
メストレ・バスチーニャに至っては、「Pastinha は本当にメストレなのか?」などと
報道され、「カポエイラで闘っていたメストレは現在は空腹と闘っている」と皮肉を
言われる程、最後はひどい貧困のうちに亡くなりました。
1981年11月13日 93歳でした。
なぜ、カポエイラの英雄・王といわれる二人はこんなにも不幸な死を迎えたのでしょうか。
二人に限らず、コインが裏返った途端、ウマニチズモが牙を向くような仕打ちに合う、
という恐ろしさがブラジルという国に常に潜んでいる気がしてなりません。
陽気で温かく、愛情に満ちたブラジルですが、一方で犯罪にまみれた憎悪を
有しており、急にその一撃を喰らうことは珍しいことではありません。
[メストレ・ビンバ]———-
今回の講義では私自身非常に興味があったメストレ・ビンバについて触れました。
なぜビンバを取り上げたかというと、それは「格闘技としてのカポエイラを発展させた男」に
興味があったからではありません。
社会学者Muniz Sodreが書いた「Mestre Bimba Corpo de Mandinga」には、
私の興味をそそる内容が多く記されていました。
ビンバはヨーロッパの血を引くパスチーニャと違い、アフリカのバントゥ系の血統です。
多くの黒人たちがそうであったように、サルヴァドールの港で、荷卸しなどの肉体労働の
仕事に就いていました。
父親のLuiz Cândido Machadoは格闘技としてのバトゥーキ(Batuque)のチャンピオンで、
母親Maria Martinha do Bonfimはブラジルの原住民トゥピナンバ族の出身でした。
父親の側面からビンバは当然格闘に強く、母親の信仰を譲り受けた日常では、
カンドンブレ・ジ・カボークロ(アフロ・ブラジルとインジオの信仰が混合したカンドンブレー)
の儀式で、要となる楽器アタバキを演奏するogã-arabêという役割を司っていました。
メストレ・ビンバを書いた描写を合わせるとこのようになります。
「190cm, 90kg 筋肉質で首は短く太い。長い腕はすばやい猫のよう。
岩のような身体つき、非常に背が高く、踊るように歩く。
目は大きく、広い肩、そしていつも笑みを浮かべている。」
どう読んでもあやしい、この文章にビンバの香気を感じずにいられません。
ビンバは、もともとはMestre Nozinho Bentoという人物にカポエイラ・アンゴラを
習っていました。1928年に 「バトゥーキとアンゴラが合わさった、より多くの攻撃を
もった真の格闘術、身体にも、そして精神にも良いもの」として
ルタ・ヘジォナウ・バイアーナLuta regional baiana バイア流格闘術を創始し、
(現在のカポエイラ・ヘジォナウのこと…当時はまだ非合法だったため“カポエイラ”という言葉自体に
悪いイメージがあり、“カポエイラ”という言葉を使用できませんでした)
カポエイラの強さの真価を知らしめるべく、格闘家としてブラジル中のあらゆる
格闘家の挑戦を受けてたちました。
※Tarde新聞に「全ての挑戦を受けて立つ」と掲載されています。
そこではTrês pancadas トレース・パンカーダス(3つの攻撃)という異名を持ち、
相手を3回の攻撃以内に仕留めたことで有名でした。
ビンバの功績をあげるとすれば、
カポエイラに教授法、コースなどを制定し、規律を定めたことと、
学生か勤め人だけが学べるようにし、アウトローなイメージを払拭したことにあります。
1932年“Centro de Cultura Física e Capoeira Regiona da Bahia”という
道場をサルヴァドールのペロウリーニョに構え、1937年にこの道場の経営権利が
法的に許可されたことでカポエィラは合法化したことになりました。
1953年にはビンバは大統領の前でカポエイラを披露し、カポエイラの社会的地位向上に貢献しました。
※ヴァルガス大統領とメストレ・ビンバ
規律・ルールregraという概念がカポエイラに入り込んできます。
ビンバの道場には9つのルールが定められていました。
1. Deixe de fumar. é proibido fumar durante os treinos.
—タバコを吸わない。練習中は禁煙。
2. Deixe de beber. O uso do álcool prejudica o metabolismo muscular.
—酒を飲まない。アルコールは筋肉の代謝を害する。
3. Evite demonstrar a seus amigos de fora da “roda” de capoeira os seus progressos. Lembre-se de que a surpresa é a melhor aliada numa luta.
—ホーダの外で自分の進歩を人に見せつけない。闘いの場において、不意打ちほど頼もしいものはないと憶えておくこと。
4. Evite conversa durante o treino. Você esta pagando o tempo que passa na academia e, observando os outros lutadores, aprenderá mais.
—練習中におしゃべりをしない。道場で練習することに対して支払っているのであるから、他の闘士をよく観察し、より学ぶように。
5. Procure gingar sempre.
—常にジンガを模索すべし
6. Pratique diariamente os exercícios fundamentais.
—日々日々基礎の練習を実践すること
7. Não tenha medo de se aproximar do seu oponente. Quanto mais próximo se mantiver, melhor aprenderá.
—相手(敵)に近づくことに恐れを持たぬこと。接近すればするほど、良く学ぶであろう。
8. Conserve o corpo relaxado.
—身体を常にリラックスさせておくこと
9. É melhor apanhar na “roda” que na”rua”.
—-路上でやられるよりは、ホーダでやられる方が良い
興味をそそられた点は8でした。
多くのスポーツや格闘技でも同様に、リラックスした身体から驚異的なパフォーマンスが生まれることはよく言われることです。
しかし、1,2,3…1,2,3…と真面目一徹ジンガを修行のように踏んでいた自分にはこの8のルールはガツンと頭を殴られたような気分でした。
[ビンバの格闘における洒落男ぶり]————-
さて、そうして体系化をはかったビンバがどのような闘いを繰り広げていたのか、
カポエイラの偉大な研究者の1人、Frederico José de Abreuの著書に
「Bimba é Bamba–Capoeira no ringue」(勇敢なるビンバ-リングのカポエイラ)という、
ビンバがどのような挑戦を受け、どのようなリングで、どう戦ったのかを記録した本があります。
その他にも、ブラジル連邦共和国が発行している「Texts of Brazil」にも興味深い記録があります。
1940年のRamagem Badoroの実録ルポで、いうなれば週刊プロレスのようなものでしょうか、
オデオン広場での試合入場時に、今のプロレスでいえば入場歌のようなものだと思いますが、
観衆の熱狂の中、歌の掛け合いでビンバが相手を威嚇している様子が記録されていた
一節に目を見張りました。
※以下、ブラジル連邦共和国外務省発行[Texts of Brazil]p,93
Ricardo Paufílio de Souza「バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽」をそのまま引用しています。
—–
….その場にいる人はみな、ビリンバウの音に合わせて
手を打ち始めた。 ビンバは身体を揺らすと歌いはじめた。
Dia que eu amanheço
Dentro de Itabaianinha
Homem não monta cavalo
Mulher não deita galinha
As freiras que tão rezando
Se esquecem da ladainha
夜が明けたなら
イタバイアニーニャでは
男は馬に乗らないし
女は鶏を抱かせもしない
祈祷を捧げる尼たちは
祈祷の言葉を忘れてしまう。
この歌は“俺がカポエイラを始めたらその猛威に誰もが普段して
いる簡単なことですら忘れてしまう”と相手を威嚇している。
——
これは、ホーダで最初に歌うクアドラの一節ですが、こんな意味だと
思ったこともなく必死で辞書を引いて途方にくれていたものでした。
クアドラは、パンデイロなどに合わせて即興で歴史物語や出来事を歌う
へペンチスタやコルデウの影響を受けてます。
実にビンバが歌っている歌は即興もあれば、コルデウの一節を使っているものも多くあります。
即興の嗜み、ちょっと気の利いたことが言えるというエレガンスは、
当時の闘士に求められた要素だったのでしょう。
——
クリオウロ(相手)も負けずに、ビリンバウの音色に合わせて身体を揺らしながら歌った。
A iuna é mandingueira
Quando tá no bebedouro
foi sabida foi ligeira
Mas a capoeira matou
イウナは魔術師だ
水飲み場では賢くて素早かったが
カポエイラが殺してしまった
「この対決はビンバにとって危険な試合になるぞ」と威嚇している。
クリオウロの即興歌に拍手が沸き起こった。
しかしクリオウロが気をよくする暇もなく、ビンバが間髪を入れずに返答歌を返した。
(中略)
取り巻きはやんやと喝采しておきまりの歌を歌った。
Zum zum zum capoeira mata um…
「ズンズンズン、カポエイラが一人殺る….」
しかしクリオウロも屈しもせず歌いかえした。
Foi no sabado eu nasci
No domingo eu caminhei
Na segunda aprendi
A capoeira eu joguei…
俺は土曜に生まれた
日曜に育ち
そして月曜には
もうカポエイラを始めていた…
人々は「Viva!!」と歓声をあげ拍手喝采した。
黒人女が一人、感極まって口を開いた
「なんてすごい子だろう!格闘もうまいし歌も上手だなんて、ビンバも相手にとって不足はないね」
——
この記録に読み取れるように、パフォーマティブな魅力が、ビンバには強くあったようです。
その強さと機転、エレガンスに魅了された妻は21人もいると言われ、そして衝撃的なことに、
その妻たちは皆「幸せだった」と口々に言っているというではありませんか。
このように、カポエイラにおける「歌」というのは、その場に合った内容を機転を利かせて歌う
というようなことも美徳とされました。
ビンバのイメージ、とはごくわずかな写真と動画にしかみることができませんが、
「最強の男」でありながら非常に洒落男だったのではないか、と妄想しています。
[ビンバとカンドンブレー]————-
次いで、Muniz Sodreの「Mestre Bimba Corpo de Mandinga」にまた面白い
章をみつけます。カポエイラの歌でよく歌われる次の歌です。
Lembá ê Lembá, Lembá do Barro Vermelho…
これを現在 Lembrar ê Lembrar と歌っている人が時々います。
ブラジル人でもいますから、それだけ馴染みのない言葉なのでしょう。
Lembáは、アフリカのヨルバの言葉で、Elegba, Legbaともいわれる、
エシュー神 Exúの別名と言われています。
ビンバ自身の守護神はシャンゴーXangôとIemanjáですが、ビンバは
エシューの取り扱いには非常に気をつかったと記されています。
2008年に公開された、伝説のカポエイリスタを描いた映画「ビゾウロ Besouro」
にはリアルにヒーローのビゾウロを守護するエシューが登場しますが、
どういうわけかエシューはカポエイリスタ達の間でカポエイラの守護神と
考えられています。
※2008年映画「Besouro」
エシューとカポエイラの関係は非常に興味深い点です。
エシューは道の交差する場所に存在すると言われており、悪と善、
物質界と精神界、生と死という相反するものの交差点に立つ神様です。
色は黒と赤とされ、一般的には黒魔術の悪魔だと思われていますが、
エシューは「中立」の位置にいる存在です。
彼は純粋な子供の願いも叶えれば、呪い殺して欲しいというような
願望まで成就させてしまいます。
エシューは選択をする時にいつもそこにいます。
最も人間に近いと考えられていて、ふざけることが大好きなブリンカリャォン
brincalhão(大ふざけな輩)で、いつも人々の境界、リミットに佇んで
最上のカシャーサ(さとうきび酒)を呑んで、シャルート(葉巻)をふかしています。
Muniz Sodreはこれを、「心と行動に基づいて人間が創られる」という
カルマ的な書き方をしていますが、すなわち非常に人間的な、
「中間に立つからこそ、使う人の心次第でどちらにも転ぶ」ということでは
ないかと理解しました。
カポエイラは遊戯であり、同時に人を殺す。
多元性に生き、選択を見つめているエシューが、カポエイラを使っても
不思議はありません。
カポエイラもまた、使う人の心と行動次第でどのようにも変化(へんげ)できる
両面性を持ち合わせているのですから。
——
私がメストレ・ビンバについてご紹介したかった意図は、
カポエイラ・ヘジォナウは(またはカポエイラは)格闘技で、
またはスピーディーでアクロバティックなもので、
ビンバは最強のレスラーだったというような
表面的でわかりやすい側面のみで受け継がれていくだけのものではないと願う心からです。
メストレ・ビンバは死後22年経ってから1996年6月12日にバイーア州立大学
名誉教授の称号を与えられます。
ビンバは元奴隷の父の元に生まれ、学校をでていませんから、文盲で無学です。
しかし、文盲でいて教養ある男でした。
「識字の無い黒人の男」が「最高の教養をもった文化人」と称される、この対極を
体現した男がビンバでした。
Muniz Sodréはちょっと面白いたとえを書いています。
何と禅問答にビンバを置き換えています。
(この文章に限らず、ソドレは少し東洋への憧れが強いようにも感じます)
—寺の庭園である僧侶が、もう一人の僧侶が雑草を抜いているのを観ていた。
「何故自然に属する植物であるものを抜かねばならないのだ」と一人はいい、
「庭園の状態を健全にするのは必要なことだ」ともう一人が言っているのを、
高僧が通りがかりに聞いた。
高僧は、一人目にお前は正しいといい、そして二人目にもお前も正しいと答えた。
そして、それを聴いていたもう一人の僧が、高僧に尋ねた。
「どうやって、同時に二つの理屈が存在することができるのですか?」
高僧はこう答えた。
「お前にもまた理屈があろう」
本当にただただこれだけの話で、ここでも私は度肝を抜かれてしまうのですが、
アンビバレンツ、両極にあるものを存在させる智慧が備わっていることは、
優れたカポエイラ指導者の要件だったのでしょうか。
このように優れた知恵と負けを知らない強靭な身体という2つの武器の
両方を備えたビンバは、名実共に一時代のカリスマだったのでした。
Muniz Sodréは今度はアフリカを出してこう書きました。
—–
ナゴーの知恵では、頭(Ori…オリ=cabeça)は神聖を意味し、第一に養われるもので、
身体は魂の集まる寺院である
先ずは知恵・頭を養い、そして魂の宿る身体を鍛錬する。
頭と身体が完全な調和を生んだ伝説のカポエイリスタがメストレ・ビンバだった
のではないでしょうか。
パート3では、この両極を行き来する術、ジンガ、マンジンガについて、
何故カポエイラに遊戯性がみられるのかをまとめ、レポートとしたいと思います。