11月20日[黒人意識の日] アンゴラの王Mandume
イエマンジャー祭のレポートも書いていないまま、最近山歩きばっかりしているようだけどワキはカポエィラはどうしたんだと、自分でも思いながら年末が近づいてきました。
なぜ山歩きをするのか、というと、ある時渓谷を歩いていて、逃亡奴隷って、こういうところを裸足で歩いていたんだな、と急に思ったのです。
その渓谷の滝を観た時、なるほど、こういう自然のエネルギーに、人はオリシャ(ヨルバの神々)をみたんだなと、そしてアクセスしづらい岩場の奥に逃亡奴隷はコミュニティを作ったことで、得意な領域で政府軍の侵略攻撃を凌いだんだと、勝手に妄想が膨らみました。
※沢を下ってきた人たちが
山ガールならぬ妄想ガールは、渓谷を歩きながら、人間は確かに文明と引き換えに様々な能力を失ったことを痛感し、現代に生きる私の身体で、どのくらいこの身体表現と闘いのこと(カポエイラ)が理解できるだろうかと思いながらぶらぶらしていました。
全身を使って岩場を歩くと、生き返るような気分になり、現代のメストレが言った「カポエィラは人間が自然をとりもどす試み」という言葉が少し理解できるような気がします。
(ということを友人に告白したら、そんなことを考えて山にいってたんだと笑われました汗)
さてそんな妄想はさておき、11月20日はブラジルは「黒人意識の日」です。1888年5月13日のブラジル奴隷解放よりも重要な日として捉えらている、逃亡奴隷たちを率いた黒人リーダー、ズンビ・ドス・パウマーレスの命日(1695年11月20日没)で、ブラジル各地でお祭りが行われます。
記録では1678年に現アラゴアス州にあたるバヒーガ山脈にあった逃亡奴隷コミュニティ・パウマーレスのキロンボは30000人を数えていたと言われています。
植民者ポルトガル、オランダ政府にとって逃亡奴隷集団は脅威であり、ポルトガルはドミンゴス・ジョルジ・ヴェリョを将軍とした派遣軍でパウマーレスのキロンボの征伐に臨みます。しかし森や山の中での自然を味方につけたズンビたちの戦術は、武器も軍用品もない状況にも関わらず非常に有能であったそうです。パウマーレスのキロンボのレジスタンスがほぼ100年に渡って続いたことは、奴隷たちがいかに強靭で、強力な力をもち勇敢であったかを物語っています。
奴隷の歴史は抑圧の歴史であり、抑圧のあるところには抵抗があり、ズンビは今なお、レジスタンスの象徴として黒人たちの英雄であり続けています。
キロンボ ドス パウマーレス記念公園
行ってみたい…
ズンビを中心とした話は前回書いたので、今回はアフリカのアンゴラの王マンドゥミについて調べていました。
というのもラッパーのEmicida(エミシーダ)の曲その名も「Mandume」を聴いて興味を持っていたのです。
そもそもなんでいきなりアンゴラなんだという話ですが、ブラジルの文化を考える時、特にカポエイラは、アフリカの様々な土地から連行されてきた人々によって育てられてきたものであり、アフリカとの繋がり、そしてブラジルにおけるポルトガル支配と奴隷貿易を考えることなく語ることはできません。
11月20日の黒人意識の日を迎えるたびに、サンパウロのアフロブラジル博物館のこども向けガイドブックをめくります。ポルトガル語がまだよくわからなかった私はこのガイドブックがちょうどよかったのですが、ずっと心に残っているとても印象深い一節があります。
…アフリカの様々な土地から人々は強制的に連れ出されました。その旅程ではもちろん彼らは何も持ちだすことを許可されませんでした。
では、彼らはいったい何を持って行ったのでしょう。心に思い出と、音楽と、魂と、信仰と、儀式と、神々と、習慣という、身体に残ったものだけを携えて、恐怖の航海とこれからの人生すべてを乗り切らねばならなかったのです。
こうして連れてこられた人々の「身体」をもってカポエイラは生まれ、現在まで受け継がれてきていました。記録するすべもなく、五感を働かせて、すべてを身体に刻んでいったのです。
ブラジル、バイーア州サルヴァドールの港に下ろされた奴隷たちは、サントアマーロやカショエラ、サン・フェリックスといった地域で砂糖の生産に従事させられます。
奴隷の耐久年数は平均7年で、平均寿命40歳程度だったといいますから、その労働や待遇は壮絶なものであったことでしょう。
そもそも、アフリカの地を出港してブラジルの地にたどり着いたのは、たった40%だったといいます。本当にTombeiro(トンベイロ…墓場船)でありました。
15世紀から19世紀にいたる4世紀の間に、アフリカは奴隷にされた人と殺された人とを合わせて6500万から7500万人を失い、アフォンソ・トネーの推計によると16世紀に10万人、17世紀に60万人,18世紀130万人の黒人がブラジルに輸入されたとされています。
※奴隷船の配置
マンドゥミ(1884年~1917年)は、ブラジルの奴隷解放(1888年5月13日)後の時代の人物です。ブラジルでは(独立国では最後となってしまった)奴隷制が終わっていたのですが、アフリカでは侵略と略奪の歴史が続いていました。
マンドゥミはもはやブラジルには関係がないのですが、1911~15年の間、南アンゴラと北ナミビアの地で、Kuanyama族の最後の王として周辺の民族をまとめ、Ovamboというグループを率いてドイツとイギリス、ポルトガルからの侵略に立ち向かった人物として、英雄とされています。世界は第一次世界大戦に向かって行き、アフリカは侵略に次ぐ侵略が行われていたまっただ中でした。Pereira d`Eça が率いたポルトガル軍とのMônguaの戦いが非常に強固な抵抗として知られ、最期マンドゥミは一般的には銃殺されたとされていますが、口承によれば、追い詰められたマンドゥミは、支配者に従うことになるならばと仲間を殺して自分も自殺したとされています。
死亡後、政府軍のみせしめとしてさらし首にされました。(ズンビと同じです)
マンドゥミはその統治の中で、女性が自分の家畜を持つことを許可した法を取ったことで知られています。(一方で野蛮な行為があったともいわれています)
エミシーダはクリップの中に、抑圧に対峙して決して頭をさげることをしなかったマンドゥミの姿を、現代ブラジルの才能あるアフロ出自のアーティストたち、一般の人たちに重ねました。マンドゥメの歴史と反抗の精神が、多くの黒人たちの頭を起こしてくれると。
また、このクリップではエミシーダと弟のフィオチが、サンパウロファッションウィークでデビューした「YASUKE」というコレクションの衣裳が使われています。ブラジルモードの世界を、かつて踏むことはなかったであろう黒人が獲得する時、彼らはなんと、織田信長に使えたという黒人奴隷から武士になった弥助をその名に冠したコレクションで飾ったのです。また、このショーは黒人モデルだけでなくキングサイズのモデルや、レズビアン、ゲイ、インスタグラマーなどを起用したことでも話題になりました。セウ・ジョルジも侍の袴風パンツで会場を沸かせていましたね。
「マンドゥミの歴史は抵抗と、そして勝つこと。最後まで戦い抜くこと」
世界では様々に差別を撤廃する取り組みがなされています。しかし、実は私達の意識や規範の中に差別意識はかなり刷り込まれています。
見た目に問題がないように制度や環境が整ったとしても、意識や心に自由と解放がもたらされなければ自由をかちえたことになりません。
目に見える障壁や制度を取り除くことだけでなく、見えない障壁を取り除くことが非常に大切で、その一番大きく強固な壁はやはり心の中にあるので、「黒人“意識”の日」が大切なのでしょう。
差別は、差別する側の心の問題だけでなく、されてきた人たちの心に深く刻まれ、根付いてしまいます。エミシーダ本人も、長い間自分の皮膚の色も、縮れた髪の毛も引け目に感じていて、小学校に入った時は教室の一番後ろの端っこで誰にも気づかれたくなかったし、見えないものとして過ごしていたと言っています。なぜなら子供だった自分には、教室の中で自分たちをとりまく冗談にならない冗談に耐えられなかったし、応じるすべも分からなかったから。
学校に通う黒人の子供たちが最初に「違うもの」としてラベリングされること、そこから自分自身が乗り越えていくことの大変さが伺えます。
そして「誰かの人生の後を行くのはやめた」というエミシーダは、挑戦されたことがない障壁に挑み続けて、常にブラジルのストリートカルチャーの最前線をいっています。エミシーダはとても知的で優しい声を持っていて、[Mandume]や[Boa Esperança]に代表されるようなラジカルな表現だけでなく、根底に優しさと敬意、謙虚さが溢れていて大好きでです。
※クリップに登場する女性ボクサー
….あいつらは自分よりもいやしくて従順な誰かが欲しいんだ
頭をさげて、決して反抗しない、全て忘れてしまったふりをする…
そんな誰かをつくりだしたり、自分がそんな風をよそおうことのない社会に
カポエイラや、サンバなどのアフロブラジル文化を継承することは、アフロ出自のブラジル人たちに自分たちのルーツ、自分たちのの祖先の豊かさや強さを教えてくれます。
こうした文化と歴史への取り組みが、自分を肯定し、自分を信じる力となって、人を育て慈しんで行くのだと思います。
大事なのは肌の色ではなく、その眼の中にある強さと、優しさ、そして「ちがい」が何であれ、繋がりあっていくことができる心ひとつなのではないでしょうか。
そのつながりが強い力となって、強い美しさとなってこれからも民衆の文化を紡ぎだしていくことを、アフロ・ブラジル文化のパワーに励まされ、勇気をもらうひとりとして願っています。
私はいつも、カポエイラの素晴らしいところは、自分が自分であることを最大限肯定してくれることだと思っています。
ブラジルの素晴らしさのひとつである多様性が、この先も豊かに育まれていきますように。
誰も自分が自分であることに引け目や負い目をもたず、大きな心で自分を、そして他人を愛することができますように。
※補記 11/22※
歴史について、また、適切な表現について、読んでくださった方からアドバイスをいただくことがあります。今回も、それに伴い修正した箇所があります。こういった表現の中に見えていない先入観があったり、歴史の伝わり方の中に思わぬ形でシステムや思惑が関与していたりするものなので、毎回とてもありがたく思います。