2006年ブラジル日記 サンパウロ3日目

コルダォン・ジ・オウロのホーダ ゆきえさんとメストレ・スアッスーナ

やっぱり時差ボケ。今日は二人して起きて話までしてしまう始末。

今日は不思議なご縁で元タカラヅカ星組トップスターの麻路さきさん(通称マリコさん)
のダンスクラスを受けることになっている。
麻路さんは退団後に日系ブラジル人の方と結婚されてサンパウロにいらしている。
実は私も中学生までよくタカラヅカを見ていて、そのころ麻路さんは男役三番手で
いらして、「ベルサイユのばら」や「紫禁城の落日」など観ていました!
実はサンパウロの旅を助けてくださった生徒の保護者のまりほママもタカラヅカがお好き
で、サンパウロではこのダンスクラスを受けていたとか。

実はその上私は大学の同期に稲葉太地という友人がいるのですが、彼は大学を卒業後
宝塚歌劇演出部に入団し、今年いよいよ「アパルトマン・シネマ」で演出家デビューした
こともあり何かとご縁があります。
皆さん稲葉先生の作品は本当に素敵なので是非ご覧になってください!

【麻路さきさんと一緒に!】

ダンスクラスは駐在でいらしている御婦人方を中心にした生徒さんで構成されていて、
クラスの内容はストレッチから簡単な(といっても私には簡単ではない)ダンスの振付まで。

いやー。タカラヅカの底力を知りました。みなさんこんなに美しく体が使えるんですね。
麻路さんは本当に教えるのが上手でいらして、止まることなく、わかりやすく、無理がなく、どんどん進んでいきます。
中学生の時にテレビで見ていた麻路さんのクラスを、まさか自分がブラジルで受けるとは夢にも思わなかったですねー。

楽しかったです!

ブラジルで発表会もやっていらっしゃるとか。

隣のスタジオでペルクサォン(打楽器)を教えている先生が実は月曜にヨガを教えている
ということがわかり、ゆきえさん早速行くと。
その先生40年ヨガやっているといってたけど、ゆきえさんに言わせると

「一体いくつやねん!」

クラスの後は、迎えに来てくださったユウコさんと、駐在でサンパウロにいらしている
数人の奥様達と一緒にランチへ。

すっごいコステーラ肉を頂きました!!!昨日食べたお肉とのやわらかさの違いに驚愕。

みなさんお子さんのお迎えがあるのでそんなに長くはご一緒できず、でもサンパウロの
いろんなことを教えて頂きました。みなさん明るく楽しい方ばかりで楽しいお昼でした。

さて、ランチの後は、今日はボランティアの解説員がいるという移民資料館へ。

【サォン・ジョアキンにある移民資料館】

2008年は日本からブラジルへ移民が始まってから100周年の年です。
それもあって日系ブラジル移民の歴史は知っておきたかったのでここは是非訪ねてみた
いところのひとつでした。ここは有料で5R$です。

サンパウロを訪れる方のために書きますが、街では建物によっては身分証明書が必要な
ところが結構あります。パスポートのコピーは必ず持ち歩きましょう。
私はここでも忘れて、名刺でしのぎました。

資料館のガイドはスナガさんという若い女性の方が担当してくださいました。

私とゆきえさんはしょっちゅう質問するので、困ったお客だったと思います。
ゆきえさんは好奇心電波が全開で、前半のコーナーでは質問しまくってました。

現地の若い日本人の人が「日系の人はウザイよ」と言っていましたが、逆にこれを観ると100年前・80年前の日本人から、日本人特有の素晴らしいところもたくさん見直すことができます。なんと言っても日本人は勤勉であるということを改めて思い出します。

初代移民は第二次世界大戦前にやってきて、ブラジルでは奴隷に変わる労働力とみなされていたので、大変劣悪な環境で労働に従事させられていました。
夢をもってブラジルにやってきたわけですが、実際彼らを待ち受けていたのは主人がいる、奴隷に変わるような厳しい労働でした。
その後自分達で奥地農業を始め、土地を開墾して自分達の農園をもつのですが、その時も全て自分たちの手で開拓したので、当然ブラジルの動物達とも戦ったわけです。

で!

そこにあった動物がヒョウ以外剥製だったんですよーーーーーー
キモチワルいいいいいいい

アリクイとかリアルにいるんです。バクとか。剥製なんですよ。

当時の家を再現したものや当時の労働道具などもあり、移民の生活を間近に見ることができました。3階まである資料館の2階は第二次世界大戦を迎えた暗い時代で、ポルトガル語の先生に習った「勝ち組・負け組」(遠く離れたブラジル移民社会では日本が戦争に負けたと認める組と、認められない組とに別れていました)についての展示ですが、やはりこれが一番興味深かったです。
当時の新聞の違いや、勝ち組が負け組に対して行った嫌がらせで、負け組の名前をつらねた位牌を作った写真があって、ぞっとしました。
脅迫行動だけでなく、殺害された事件もあったそうです。
当時の新聞の違いや、日本は戦争に勝ったという行進が実に終戦後10年経ってもサンパウロ
では行われていたという写真には驚愕です。
やはりここまで戦中日本が一部の人達の間では狂気だったのも事実だと思います。

3階は現代に活躍する人達などの紹介で、1-2階よりずっと明るい雰囲気です。
ここの受付のおじさんが不思議な人で、「またいらっしゃいねパワー」をくれました。

ここの2階で長野県人会の新井さんという会長ご夫人に偶然会いました。
実は出発前に長野県人会の東京支部の理事長さんとお会いする機会があり、サンパウロの
県人会へのお土産を預かっていたので、そのお話をしたらなんと土曜日は忘年会というでは
ありませんか!
母(私の母も長野出身です)のお土産の食べ物もあるので、忘年会前にお届けしますとお伝えして別れました。
実はこの食べ物、私には何だかわからないのですが母いわく「信州の人なら観れば絶対にわかる」そうです。

リベルダージ地区をぶらぶら歩いて

【リベルダージの町並み】

ホテルに戻り、すぐネットカフェへ。

そして休む間もなくコルダォン・ジ・オウロのホーダへ。

サンタ・セシリアの駅で腹ごしらえにゆきえさんはとうもろこしを食べてました。

道場に着いてみるとテレビの取材撮影をやっていました。

いろんな人が集ってすごく綺麗なホーダでした。黄色帯の女の子たちみんな上手!

取材でビリンバウについて聞かれていたとき、何か2つリズムを紹介してくれと言われて、
当然ミウジーニョを弾いていた。あともう一つはサォン・ベント・グランジ・ジ・ヘジォナウ。
当たり前だけど指導者級の人は取材にも慣れているのか説明もよどみない。
あとからメストレに突っ込まれてたけど。

取材の後はホーダ。と思ったらみんなを盛り上げるためにまずはマクレレーからということに。

その後プシャーダ・ジ・ヘージ。

そしてホーダ。

ブラジル日記 サンパウロ3日目

ホーダは一回しか出られなかった。

コルダォン・ジ・オウロは層が厚い。上の人間がしっかりしているので結束が強いし安定している。

帰り際、一応指導者級の人には挨拶しないとと思ってミンチリーニョと話したら、やっぱり
ユキーニョのことを言うと笑顔になった。
ミンチリーニョはちょっとボッカォンみたいな硬派な人。
ホーダの合間に注意をしたり、マクレレーなんかでついてこられない落ちこぼれがでると
その人について教えてくれたり。

「ユキはまたブラジルに来るといっていた。来て欲しい。あと半年はいて欲しかった。
そしたらもっともっとより良くなっていただろうに!」とのメッセージ。硬派。

そんなユキーニョへミンチリーニョから。

帰りはアンドレーとちょこっと話した。でも彼女と一緒だったので余り邪魔せずすぐ失礼。

今日も早めに閉店。といっても1時すぎ。

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