サントアマーロ小旅行とカポテラピア、マクレレー再考

2016年7月のブラジル旅行記です。メストレ・マカーコと。



※サントアマーロを象徴する、ノッサ・セニョーラ・ダ・プリフィカサォン教会
ここで毎年お祭りが行われます。1608年に建立されました。

サントアマーロに限らず、とにかくバイーアの田舎の思い出は「蚊」です。
人生でこんなに喰われたことがないというくらい、喰われました。
時はジカ熱、デング熱の過熱報道の時期。オリンピックも、ブラジルにいくとジカになるから行きたくないと断った選手がいると(きっとほかに理由があったと思いますが)いうのに、私は蚊による人生最大のモテ期をバイーアで迎えました。
都市ではほとんど喰われませんでしたが、田舎にはたくさん、いるんです…そして日本から持って行った蚊よけなんて、たくましい田舎の彼らにはなんの効き目もなく。
サントアマーロでは、Acarboというカポエイラグループの先生、メストレ・マカーコのおうちに泊めていただきましたが、メストレはおうちを改装中の仮家暮らしで、蚊と、前回同様の固いベッドと、寒さ、5時にちゃんと鳴いてくれる鶏のおかけで全く眠れませんでした。あーほんと、辛かった…
でもですね、メストレいわく、田舎の蚊は大丈夫なのだそうです。都市の蚊がジカを生んでいるのだそう。そうですよね。環境異常が引き起こす異常現象なんですよね。私たちあれだけ喰われましたもの、これで大丈夫じゃなかったら、日本に帰れません。
ジカ熱は小頭症(子供の頭が小さく生まれて来てしまう)を引き起こすということで恐れられていましたが、感染から一年たって検査して大丈夫なら、妊娠しても大丈夫なようです。

蚊の話はさておき、リオ→サルヴァドール→サントアマーロ→カショエイラという行程の話です。

サントアマーロに行くのは今回が4回目ですが、なぜそこまでこの土地に惹かれるかというと、ここにバイーアのカポエィラの素晴らしさが詰まっているような気がしてならないからです。
前回の訪問記はこちら
加えてこちらのACARBOのメストレ・マカーコ、この人の言動、そして活動に毎回感動させられるのです。

サントアマーロへ向かう前夜、サルヴァドールで自分の道場の練習に参加した終わり、練習に来ていたメシカーノが、なんとなんと、明日仕事でサントアマーロに行くから乗って行きなよというではないですか。ありがたや〜
というわけで早朝にショッピング・バイーアで、娘を学校に送ったメシカーノと待ち合わせて、出発します。メシカーノ奥さんのミレーニも一緒に、旅についての話などしながら楽しく90分のドライブ。2人は太陽エネルギーの会社を経営していますが、旅行が大好きで、いつか一緒に日本に来たいと言っていました。
ミレーニと私は、旅の計画をばっちり詰め込むところが同じだとわかりました笑

高速を飛ばして、サントアマーロに入ると、そこには帝政時代からのカーザ・グランジが。※支配者側の主人が住んでいた大邸宅のこと。

ここが、1557年から、ポルトガル人たちがたどり着いた、そしてその以前から原住民トゥピ族が暮らしていた土地です。その後奴隷たちがやってきます。
マクレレー発祥の地、サンバ・ジ・ホーダの地、そして、かの有名なミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾとマリア・ベターニアの地です。
カポエイラとかかわりがあるところといえば、伝説のカポエィリスタ、ビゾウロ・マンガンガーの地であり、ビゾウロ・マンガンガーの弟子には
とてもミステリアスなメストレのひとり、コブリーニャ・ヴェルジがいます。コブリーニャ・ヴェルジはビゾウロの実のいとこで、語りにもある通り、ビゾウロはコブリーニャが18歳の時に殺されてしまいます。

かつてサントアマーロには61のサトウキビ農園があり、各農園では200人のアフリカから連行された奴隷たちが働かされていたといいます。
ざっと計算して12000人はいたことになります。現在わずか6000人程度の人口のこの街に、10000人を超える奴隷たちが労働に従事していたわけです。

※このタペストリーにはサントアマーロの歴史が描かれています。サトウキビ栽培に多くの奴隷が従事していました。

※ビゾウロの映画に出てきたような、市場。

ミレーニとメシカーノのおかげでメストレ・マカーコと落ち合うことができ、メストレが様々な街の名所や
今取り組んでいるカポエイラの事業について紹介してくれます。


※川沿いの市場を抜けていきます。スバエ川は様々な交易に使われました。初期は奴隷たちも船に乗せられてきたといいます。


ここがACARBOのアカデミア、というべきでもなく、すでにここは、地域文化福祉センターの役割を果たしています。


アカデミアと少し離れたところに、パソコン教室を開催しています。ここの先生はACARBOの生徒さん。
写真を撮れていませんが、この奥では60歳以上のおばあちゃんたちが、仕事のためにパソコンを習っていました。


ACARBOの看板です。重要なのはここで行われているのはカポエイラだけではないということですね。

※センターの2階ではさまざまな活動が行われています。ここは、ドラッグの相談室です。

※ここは、洋裁のお教室です。先生は、 ここもACARBOの生徒。


※図書室があります。英語の授業も開催しているそうです。


エシューはビゾウロの守護神だったといいます


先ほどの手芸の教室のおばちゃんが、私たちに見せるために待っていてくれました。


素晴らしい作品です。


このスペースでカポエイラをするのですが、クラスの前に料理教室が開催されています。男子もいました。


途中でカポエイラが始まってしまったのですが、私たちのためにとっておいてくれました。


これは、高齢者向けのカポエイラセラピークラスです。その名も「カポテラピア」。やさしいピチブウ先生が、おばあちゃんたちにストレッチから指導します。


みんな、カラダがかたいわけです。どの国も高齢者が増え、少子化が進んでいるわけで、高齢者が健康寿命を長く保つのは生活の質の向上のために重要です。


カポテラピア(Capoterapia カポエイラセラピー)は、カポエイラそのものではなく、カポエイラの動きや音楽を使って、楽しみながら身体を動かし、文化を継承し、高齢者の健康維持向上をめざす、地域貢献活動です。
これはあくまでも地域文化活動として捉えたほうが良いと思います。フィットネスやエクササイズ仕様ではありません。ほのぼのとおばあちゃんたち本人たちがカポエイラの歌をうたいながら「あらーできないわあ〜」などのんびり言いながら取り組んでいます。


子供たちのカポエイラクラスが始まりました。指導は前半はメストレ マカーコが、途中からメストレマカーコの息子のハイランと、同世代の子供達です。


グループの名前がをかたどっています。リンドロアモールの柄です。かわいい◎


メストレマカーコの娘エマヌエラとおうちの前で。前にあった時はまだママのお腹の中にいたんだよね。


家のあるあたり。手作り感の溢れる家並みです。


建設中の新居に連れて行ってくれました。


二階に私たちのようなゲストをとめられるようにするのだとか。
この家の計画を、以前会った2007年に話していました。設計図も書いていて、日本だと普通「時間がかかりすぎだろ」と突っ込まれそうですが、むしろ実現にむかっていることに感動しました。そのくらい時間がかかることが当たり前だし、自然だと思います。

ここまで写真でご紹介してきましたが、ACARBOの活動を見られたことは今回の旅の大きな収穫でした。
社会福祉的な意義と、文化の継承の意義において、とても重要な役割を地域で果たしています。
クラスが終わると、以前と変わらぬメストレ・マカーコのお話があるのですが、これを驚くほどに生徒は黙ってちゃんと聞いています。
なおさんが「キング牧師とかってこうやって考えを広めたんだろうね」といっていましたが、本当にその通りで、カポエイラをするだけでなく
人として大事なこと、自分たちがしていることがなんなのかを、基本的な行動として言葉にして伝えていきます。
とても基本的で地道な活動です。でも実はそれこそが先駆的な取り組みになっていくのだと思います。

手芸、料理、パソコン教室などの就業支援や、ドラッグ相談室などの青少年のための事業だけでなく、地域の高齢者のためのカポエイラを使った健康向上事業など、(文化事業と青少年育成はもとより)社会貢献度の高い事業を展開しています。
サントアマーロはちいさな田舎です。この地域の人たちに、カポエイラをベースにしたこの場所で、人生に役立てることがないだろうかと模索して、そして実現していく、本当に良い志をもって、協力者を作って、ひとつひとつ実現していった結果がかたちになっていました。しかも感動的なのは、たんに場所ができたということではなく、とても有機的に人が交流し、活きた場所になっているのです。
私はここで、トニーの奥さんのアニーがやりたかったことはこれに近いものだなあと、少し打ちのめされたような気持ちになりました。
メストレ・マカーコの奥さんは子育てが落ち着く間もなく大学に通い、教員免許をとって、学校の先生として働きながらメストレ・マカーコの事業を手伝っています。忘れもしない最後の滞在のときがサントアマーロはフェスタで、2人はずっと手をつないでいました。

メストレ・マカーコがとても誇らしげに嬉しげに見せてくれた記念タペストリーです。

メストレ・マカーコは私となおさんが「きたじませんぱい(北島三郎師匠)」と慕うほどに、そしてマカーコ(猿)という名のようにさながらおさるさんのようですが、
本人をして「ワシはブサイクだけど妻は綺麗なんだよ」と。でも、奥さんのエジレーニはきっと、あなたのその心根を、人柄を本当に愛しているんだと思うよ、きたじまパイセン。
ちなみにマカーコというあだ名は猿に似ているということではなく、アクロバットが得意で猿のようにぴょんぴょん飛び回っていたらこの名前になったのだそう。



さて、サントアマーロでいつも大切なことを惜しみなく学ばせてもらっているわけですが、サントアマーロといえば、カポエイラではビゾウロ・マンガンガーの伝説と、マクレレー発祥の地であるという特徴があります。

初めて来た時、私はまだ若く、そんなにポルトガル語がわかったわけではないのですが、いろんなことを知りたい一心で、メストレ・マカーコが連れて行ってくれた図書館でマクレレーの本を書き写しました笑 その時はちょうどACARBO主催のオフィシーナ(ワークショップ)をやっていて、マクレレーのワークショップを受けました。

そこでの体験と、いまになってその本に書かれていることを読み直してみると理解できることがありましたので、再考してみたいと思います。
拙い当時の私は出典を書いていませんので、お許しください。
マクレレーには、実はBarravento, Ijexá, Congo, Nago, Angolaなどの異なるリズムがシーンごとに決まっています。

そもそも、マクレレーはフォルクローレダンスと思われているかもしれませんが、マクレレーはカポエイラのいとこのようなもので、戦いでありダンスです。
マクレレーがサントアマーロ発祥と言われるのは、サントアマーロのメストレ・ポポーという人が、復興させたことによります。
ワークショップの時も、ポポーの元生徒だったというおばちゃんが威厳をまとって登場し、「マクレレーはダンスじゃなくてルタよ!(戦い)」とおっしゃっていました。
メストレ・ポポーはPaulino Aloiso Andrade という本名で、1902年6月6日生まれ、 1969年9月16日に亡くなりました。
マクレレーという名が雑誌に出た記録としては、1873年に“O Popular”という雑誌に記述があります。それは、1月12日に108歳で亡くなったハイムンダ・キテイラというおばあちゃんの訃報で、「その年齢にも関わらず、草取り、教会の墓地の掃除をしていた。マクレレーのお祭り騒ぎのために」と記されています。
奴隷解放が1888年ですが、メストレ・ポポーは年老いたPreto Velhoプレットヴェーリョ、解放奴隷のおじいちゃんたちとマクレレーを始めました。
つまりそれは奴隷制時代の昔からあったもので、ポポーが改めて始めたということです。
ポポーはすでに生まれたとき奴隷ではありませんでしたが、ポポーのひとつ上の世代はまだ解放奴隷がいたわけです。
1944年ごろに、こどもたちに“Brinquedo”(おもちゃ)という名のこの遊びを、「この古びた遊びがしたいかい」と教え始めたそうです。
3つのアタバキ(音と役割によって、フン、フンピ、レー)と、アゴゴ、カシシかガンザを使っていました。

ポポーの有名なインタビューで、マクレレーはダンスか戦いなのかという問いに「そのふたつは離れ離れのものか?マクレレーはダンスであり同時に戦いだ。防御と攻撃が黒人のリズムとともに混合されているんだ。われわれは処女マリアを礼拝して、また、愉しんで歌い踊るんだ。そして黒人奴隷を解放してくれたイザベル女王を称賛する」と答えています。マクレレーはカポエイラと同様の出自で、奴隷たちがセンザーラ(奴隷小屋)に夜主人が見回りに来たときにアフリカのお祈りの一種だと思わせるためにダンスの中に隠したそうです。
メストレ・ポポーのときはまだアフリカの言語で歌っていた歌もあるそうで、歌の中にでてくるJurema、ジュレマの薬草酒はインディアンとアフリカ奴隷の混合宗教、カンドンブレー・ジ・カボークロから来ているそうです。かつては4つしか曲がなく、すべてNagoのリズムだったそうです。アタバキ3台というところも、カンドンブレーにつながるところがありますね。
ちなみ語源についてですが、私はゲトカポエイラのワークショップで、マクー族とレレー族の話を教えてもらったとき、びっくりした、というか、実は最初冗談かと思ったのです。(名前が面白くて)しかし、ビリンバウの話も然りですが、カポエイラのような文化は、なりたちに諸説あるのがむしろ基本なのだと思いますし、そういったいくつかの説が重なり合っているものなのだと思います。
当時のメモには「セルジオ・カルドーゾによると、アフリカの収穫期を起源として、アタバキの名前に由来するMacumマクン(Maoirの意味)」と「レーLe」(Menorの意味)に由来する」と書いてありました。謎は深まるばかりです。※アタバキはマクンバと呼ばれていたため。
このように、カポエイラには、真実がわかりづらいものが多く、でも、どちらも真実かもしれないし、同じことを違う言葉でいっていたり、形態の違う現れ方をしているものもあるのではないかと思います。
ちなみに打ち合っている棒のことを一般的にグリマといいますが、本では「Varaヴァラ(枝)」と書いてあって、これは夜の間に枝を選んで、ヤスリをかけたあとに火を通すのだそうです。棒に適しているのはビリバの木、カンジの木、ピチアの木だそう。

アタバキについてはFeito de carburet estanho e pele de vacaと書いてあるのですが、ちょっと意味がわかりませんでした。太鼓に詳しい方是非教えていただければと思います。
1944年のころにポポーがマクレレーをおしえた、そのこどもがZezeというのですが、のちのポポーへのインタビューで「なぜマクレレーでナイフを打つのか」という質問に、「奴隷がナイフ持ってマクレレーを練習してたらとっくに逃亡奴隷狩りのやつらのあたまをやってたろうよ」と答えており、「でもそれを(ナイフを)やっているのははあなたのこどもですよね」と言われると「それはゼジーニョ(息子)の誤解だ。サルヴァドールの金持ち連中と踊ってるんだ」と言ったそうです。※サルヴァドールのTCAでパフォーマンスをしたそうです。

ちなみに、よく「しゃがんで、足を広げて立って、頭上でグリマを打つ」みたいなステップを踏む振りをみると思うのですが、あれはレシフェのフレーヴォで、マクレレーではありません。
ポポーのより後の世代に、マクレレーは役割がわかりやすくなって、シーンが決まってきました。ただの振りではなくシーンごとに意味があるそうです、私は意識の中で、奴隷解放が多くの奴隷にとって良いこともあったが、それは本当の解放にならなかったという意味であまり歓迎されていないのかと思いましたが、マクレレーのなかではイザベル女王に感謝と賞賛を送っているのです。(Vamos todos a louvar, nossa nação brasileira,. Salve a Princesa Isabel que nos librou do cativeiro…の歌のようにです)マクレレーの中にも歴史があり、背景があるのですね。

この後はサントアマーロの観光名所を写真でご紹介


※Casa de Sambaで。これまた研究者の方々と合流しましたが、じっくり読むことは叶わず…


※カーザ ジ サンバ、サンバの家です。バイーアの無形文化遺産が紹介されています。


※コズミとダミアォンのフェスタ。7人の子供がえらばれます。


※ウンビガーダといって、サンバの輪に入る特に、相手のおへそと自分のおへそをぶつけます。ウンビーゴがおへそで、この動きの意味は「私はここから来た、そうしてそうやってきたあなたとつながった」という意味だったかな。


お皿サンバ。皿の裏をナイフでこすって音をだします。


※マリア ベターニアのファンクラブを通りました。


※メストレが連れて行ってくれたマニソバ!美味しかったです。

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